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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年4月号

文学にみる障害者像

大崎善生著 『聖の青春』

松永千恵子

1998(平成10)年8月8日、「怪童」と呼ばれた天才棋士村山聖(むらやま・さとし)が急性膀胱癌のためこの世を去った。享年29歳であった。村山聖は腎ネフローゼを幼少のころ患い、入退院の生活を送りながら将棋界の頂点である名人をめざし、A級八段というトップクラスに在籍をしたまま将棋への熱い思いを胸に早すぎる死を遂げた。この村山聖を主人公に、将棋雑誌の編集者であった大崎善生が著したノンフィクション小説が『聖の青春』である。小学生の頃、腎ネフローゼで入院したベッドで覚えた将棋に魅せられ、自らの命を削りながら将棋を指し、死ぬ間際まで将棋の棋譜を口にした村山聖の凄烈な青春が、この小説から圧倒的な強さで読者に迫ってくる。その全力疾走の生き方にただただ引き込まれて、ぐいぐいと読み進んでしまう。

村山聖は1969(昭和44)年、広島で誕生した。生まれてから夜泣きもせず、お乳もたっぷりと飲む、健康で手のかからない愛らしい赤ん坊であった。それが3歳の夏を境に一変する。高熱を何度も繰り返し、母親は聖を抱いて町の医者に足しげく通ったのだが、5歳の誕生日を迎えた頃には、別の病院で腎臓の機能障害である腎ネフローゼに罹患したことが判明。母トミコは、「お母さん、大変な病気にさせてしまいましたねえ」という病院の医師の言葉に親としての責任を痛感し、一生悔いることになる。

それからの聖は、病院と療養所の入退院を繰り返す。そんなある日、病院のベッドで長い時間を過ごす6歳の聖に父親が将棋盤と駒を持参した。初めて指した将棋に一遍で心を奪われ、それ以後聖は将棋の道を「名人」になる夢を抱いてまっしぐらに突き進み始めた。

聖は習っていない漢字が並んでいる将棋の本を、病院のベッドで繰り返し読んで自分なりに理解した。母親に買ってきてもらう将棋の本は、毎日6時間は夢中になって読みふけった。11歳の時には中国地区子ども名人戦に出場して優勝、中学では広島の家を出て大阪でプロ棋士の森信雄(当時四段)の内弟子に、そして14歳の時に奨励会入りし、その後はプロの将棋指しの生活であった。

こう書いてしまえば、病を持ちながらも順調に将棋のプロの道を歩んだように見えるが、事実は腎ネフローゼと闘いながらの厳しい修羅の道であった。

腎ネフローゼは1972(昭和47)年の身体障害者福祉法の改正により、身体障害に加えられたじん臓機能障害である。臨床症状は極度の疲労や発熱が誘引となって、大量の蛋白尿、低タンパク血症、著しい浮腫の三つが見られるとされている1)。たんぱく質は細胞の基盤であり、それが不足すると身体を守る免疫細胞の供給量が激減し、抵抗力が低下する。そのため、ちょっとしたことでも高熱を発しやすくなる。治療法は、安静にすることで、何もせず布団の中でジーッと横たわっているのが最も効果のある治療法であった。

「体調は突然崩れることが多かった。対局の朝、(大阪の下宿の)部屋を出たのはいいが玄関からどうしても動けなくなる。這うように外に出た途端にアスファルトの上に崩れる。気息を整えて立ち上がろうとするのだが手足が微動だにしない。焦りと悔しさで目頭が熱くなる。」2)

プロ棋士生活の後半には、体はぼろぼろで、這うようにして対局室へ行き、対局を終えてタクシーで自宅へたどり着くと、スーツのまま眠ってしまうこともしょっちゅうであった。そして翌朝には熱を出し、病院へ入院となった。その入院中のベッドを医者の制止を振り切って抜け出し、将棋の対局室に向かったこともあった。聖自身は、その行為が自分の生命に危険をもたらす可能性があることは百も承知であった。

このエピソードからも分かるように、読み始めてすぐに聖の人となりの強さに気付く。子どもの頃は、一度「いやじゃ」と言いだすと、もうおしまい、てこでも動かなかった。

しかし、6歳で将棋を知り、その性格は変化を見せる。どうしようもない癇癪(かんしゃく)もちで、手を焼かせてばかりだった聖が将棋を知ったことによって明らかに変わった。将棋にのめりこんでいくことによって聖の内面に大きな変化が訪れたのである。知れば知るほど勉強すればするほど聖は将棋に引き付けられ、彼の心のエネルギーはもっぱら将棋のために費やされた。彼は自分自身の人生を賭けるものを見つけたのである。

私たち「凡才」は、時として「天才」とはまったく己の外見を気にせず、好きな研究や仕事一筋に打ち込む奇人変人タイプがいると認識していないだろうか。彼は、まさしくそのとおりの人物であった。腎ネフローゼでむくんだほっぺは愛嬌たっぷり。太り気味でちょっと童顔の顔は江戸時代の浮世絵「怪童丸」にそっくりと言われ、秀でた彼の才能もあっていつの間にか聖は「怪童」と呼ばれていた。風呂は嫌いで髪を切ったり、ひげをそったりするのも大嫌い。いつも髪はくしゃくしゃ、洋服はよれよれ、靴下ははかずに裸足で靴を履く。さらに、爪を切るのも嫌い。対戦した谷川棋士からは、「爪を切ったほうがいい」と注意されたこともあった。住まいとしていた大阪の彼の四畳半の下宿には、膨大な少女漫画やミステリーの本と音楽、そして万年床の布団があるだけ。大好きなものに囲まれて将棋が指せれば彼はそれでよかった。

そのような「天才」を私たち「凡才」は畏敬の念をこめて見る。そうだ、非凡な才能を持ちその道一筋の人間とは、なりふりかまわず目標に一直線に突き進む人間であっていいと、だから、身なりなんてどうでもいいのだと。

さらに「天才」の聖は、「天才」の変わり者は子どものように純粋な心を持ち世間知らず、という定石も踏まえていて、この小説の中で私たちの期待を裏切ることもない。

このように個性的な村山聖の人としての魅力を、この小説の中では余すところなく記しているが、そこがまた、この小説の面白さのひとつでもある。

聖を大変可愛がった師匠の森信雄も個性的である。師匠である森と聖の密度の濃い師弟関係は本書の中でいくつも紹介されているが、その一つひとつが強烈なインパクトを持って胸を打つ。実は、師匠の森信雄も、髪もひげも伸び放題、風呂は入らん、歯もめったに磨かない人物であった。その森が凍てつく大阪の公園でばったり出会った聖に駆け寄り、「飯、ちゃんと食う取るか? 風呂はいらなあかん…」と手を取りさすってやる場面、棋士として高収入を得るようになりゴルフをしたいと言い出す聖に、そんなことができる体ではないと怒って聖の足をけり諭す場面に、純粋で無垢な愛情の交換を見る。

この二人は、血の繋がりはもちろんないが、前世では親子かと思えるほど似通っていたのである。二人は大阪で毎日決まった定食屋へ夕食を食べに出かけていた。今となっては笑えるが、そこの主人は二人のことを母親に逃げられた親子だとずっと思っていたという。

村山聖が活躍した当時の将棋界は、「チャイルド・ブランド」と呼ばれる新世代の谷川浩二や羽生善治といった棋士が彗星のごとく出現した時であった。将棋を詳しく知らない諸氏も天才羽生善治が奇跡の7冠獲りをして、将棋界に大ブームを巻き起こしたことはご記憶だろう。東に天才羽生がいれば、西に怪童村山がいると人々は並び称したものであった。だから天与の才ある聖の死は、人を魅了するキャラクターとあいまって大いに惜しまれることとなった。聖が健在なら、今でも確実に彼らと一緒に将棋界の一角を担っていたはずである。

日本の社会福祉は、1998(平成10)年の「社会福祉基礎構造改革」によって戦後50年続いた措置制度から契約制度へと変革し、これまで保護の「客体」であった障害者に、人としての尊厳を持ってその人らしく生きる権利がやっと確認されたといっていい。憲法十三条に幸福権の追求があるが、障害者が「その人らしく生きる」ということを現在、どれほどの人が実現しているであろう。

この小説には、社会福祉、障害者福祉という言葉は一度も出てこない。自分の生き方を自分で選び、自分で決めてそれを実現する。好きな将棋のためなら命を縮めてまでも自分らしい生き方を貫いたのが、村山聖であった。もし彼に、じん臓の機能障害がなくても、きっと何か人生の目標を見つけ、ひたむきに生きていたことであろう。

人とは、自分が無し得ない一途な生き方をしている人物に強く惹かれるものである。この『聖の青春』は、まさに人が求めている感動を与えてくれる一冊である。

(まつながちえこ 常磐大学コミュニティ振興学部非常勤講師)

1)中西睦子・大石実編『看護・医学辞典〈第6版〉』、pp.707a、医学書院、2002.

2)大崎善生『聖の青春』、pp.154、講談社、2000.


掲載者注: 原本のノーマライゼーション2004年4月号では、 「森信夫」と「森信雄」が混在していましたが、 「森信雄」が正しいというご指摘をいただき、 ウェブでは、「森信雄」に統一しました。