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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年12月号

1000字提言

「ただ抱きしめてあげればよい」か?

土屋葉

先日たまたま目にしたコマーシャル。若い女性が小さな女の子の前で、両腕で自分を抱きしめるようにして、悲しいような困ったような顔をして立ちつくしている。長い沈黙の後、「ただ抱きしめてあげればいいのです」とナレーションが入る(たぶんそんな台詞だった)。少し考えて、なるほどこれは「児童虐待」防止を訴える広告だと思い至った。が、なんだか後味の悪さだけが残った。なぜなのだろう?

とても悲しいことだがメディアが「虐待」を取りあげない日はない。つい先日も16歳の少女の死が報じられた。普段であればざっと読み過ごす記事のなかに、「障害」の文字が目についた。記事は、両親は離婚し母子家庭であったこと、知的障害があることを理由に保育所への入所を拒否されたこと、養護学校をすすめられたが母親は拒否したこと、中学校には全く登校しなかったことを伝えていた。断片的な情報からではあるが、社会という壁に立ち向かうなかで、傷つき孤立し、疲れ果ててしまった母親と娘の姿が想像される。

母親を「もっと子どもを愛してあげればよかったのに」と責めることは簡単だ。しかし、「虐待」問題が、「抱きしめれば/愛があれば」解決するわけではないことは明らかである。だからこそ冒頭のコマーシャルは、奇妙にヒトゴトで何も意味を伝えない、空虚なものに見えてしまう。「母子を孤立させる社会が悪いのだ」ということもできる。障害をもつ人を拒否する社会のあり方は批判されてしかるべきだが、これだけでは不十分である。30年近く前の「母よ! 殺すな」という子どもからのメッセージに含意されていたように、家族(母親のみではない)や社会のもつ障害観まで立ちかえる必要があるだろう。

私はここで、家族の関係とケア(介護・介助・子育て)のあり方自体の捉えかえしを提案したい。ある人の言葉を借りて誤解を恐れずにいえば、私は、子どもや親などの家族を「放り出す」ことのできる社会になればよいと思う。「放り出す」という言葉に抵抗があるのならば、「社会としてのケアの充実」と言いかえてもよい。たとえば親と子どもが一対一で向き合うことは時には楽しいかもしれないが、時には辛くそれ自体が困難なこともある。二人でいる以外の場所や、ケアを必要とする人・子どもが生きてゆくための複数の選択肢があれば、ケアする側もされる側も絶対的な安心感を抱くだろう。重要な他者は、一人であってもいいが、必ずしも一人でなければならないことはない。互いに重要な他者でありつづけるために、さらなる他者が必要なこともある。こうした場所に立って議論をはじめたいと思う。

(つちやよう 日本学術振興会特別研究員)