「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年12月号
ワールドナウ
大連国際マラソンの初参加と障害者事情
田畑美智子
10月31日、中国大連市で行われた「大連国際マラソン」に、日中の視覚障害者が初めて参加した。伴走者交流も行われ、筆者には大連理工大学の学生ボランティアが、反対に日本のボランティア3人は中国ランナーの伴走をした。総勢14人の隊列を組み、前後を地元のボランティアが固め、集団の最後尾から、フルマラソンの10分の1の4.2195キロという短い距離ではあったが、初参加を祝して走った。
大連に来てくれませんか?
今回の参加は、現在遼寧省の障害者連合会理事、王崢(おう・じょう)さんが3年前「ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業」の研修生として日本に滞在中、筆者が副代表を務めるアキレストラッククラブの練習会に参加し、中国でも障害者のマラソンクラブを作りたいと思ったのがきっかけだ。
アキレストラッククラブは、交通事故で足を切断した米国の男性がニューヨークシティマラソンを7時間24分かかって完走した後に結成されたあらゆる障害のあるランナーの走友会で、世界数十か国のさまざまな障害のあるランナーが、各地で活動を展開している。日本支部も1995年に設立され、練習会を中心に、大会参加や国際交流など活発に活動している。
中国での走友会設立の機会を大連国際マラソンの参加で、と願った王さんだが、中国では視覚障害者の一般マラソン大会での参加実績は皆無に等しい。同大会も当初は参加を認めなかった。理由は、やはり安全面からだ。しかし、王さんは、日本からの各種資料を手に粘り強く交渉する傍ら、日本からの応援参加を要請。同大会日本事務局のご好意もあり、日本からの参加をきっかけに、中国サイドでも参加が許可され、今回の日中合同初参加に至った。
大会準備
大連市障害者連合会の中に、肢体障害者の女性をトップとする盲人マラソン調整チームが設置され、ワゴンカーでの送迎やスケジュールなど、すべて準備していただいた。この大会には車いすの部がすでに10年前から設けられ、中国だけでなく韓国・台湾からもランナーが集まり、昼食や夕食は皆一緒に山と積まれた大皿料理を堪能した。また、聴覚障害者の青年が終始同行し、カメラとビデオを持ち替えながら撮影に奔走してくれた。文字通り、障害者の手による障害者のマラソン参加だ。
大会前日には、連合会の会議室で、簡単な伴走と盲人マラソンの講習会を行った。給水はどうするのかなど、疑問に思うのはいずこも同じ。説明の後、日本から持参した伴走ロープを手に、中庭で実際に伴走を体験した。
レース本番!
朝8時のスタート時には、およそ5千人のランナーが星海広場に集結。盲人マラソンチームも高鳴る思いを胸に車を降りた。5人の中国盲人ランナーの胸には、「自分の限界を超える」、「風を感じて走る」等、思いのたけを記した襷(たすき)がかかった。伴走者もオレンジに黄色の襷を肩に、多少緊張した面持ちでスタートラインに立った。
連合会の車が2台、調整チームらの関係者を乗せてランナーに併走。「すごいねぇ!」と車内から片言の日本語で声が飛んでくる。最後尾でかなり目立ち、一般取材のビデオやカメラも相当注目していた。途中、人民解放軍の卵の高校生たちが「ヂャーヨー(頑張って)!」と大きな拍手を送ってくれたり、連合会の人たちに促されて一般の沿道の人たちも声を掛けてくれたり、なごやかなムードで走ることができた。沿道の人たちは声を掛けることに慣れていない様子だったが、ランナーのほうは「シエ・シエ(ありがとう)!」と答えるのにすっかり慣れた様子。少しでも応援を受けると、大きく手を振り声を出していた。
参加した中国のランナーは、またぜひレースに出たい、今度はもっと長距離に挑戦したいと話していた。また、大会に参加しない障害者が大勢、沿道で応援団を組み、大段幕と一緒に「イー・アール・ヂャーヨー(いちに、頑張れ)!」と大歓声を挙げてくれた。涙を浮かべていた人もいた。応援に駆けつけた中国ランナーの家族、ゴール後の筆者に近寄り手を握る人など、感動の一幕もあった。大連盲人協会の韓理事長が、「大連の3万1000人の視覚障害者、22万人の障害者を代表し、皆さんを応援します」と何度も力強く語っていた。これまで、一般のマラソン大会に参加することなど想像もつかなかったであろう彼らの状況を思うと、今大会参加に寄せる彼らの思いの重さをずっしりと肩に感じた瞬間だった。
アフターラン
午後は、日中の視覚障害者事情の情報交換会が行われた。就労・教育から恋愛・料理まで、硬軟取り混ぜさまざまな話題に花が咲いた。当地では大学入試の共通試験に点字受験が認められておらず、選挙なども当然のことながら点字の対応がされていない。点字の教科書を作る印刷所は北京のみとのことで、近々、大連に点字センター建設を計画し、これから寄付を募るそうだ。日本は遥かに進んでいると思われているようだったが、日本でもさまざまな問題があることを伝え、これから一緒に前進していこうと語り合った。コンピューターに詳しい視覚障害者の曲さんが掲示板を立ち上げて、当日話し合われたことなどをさらに議論できればと話していたが、インターネットの翻訳サービスなどを利用し、日本からの参加者が増えれば、さらに日中の交流が図られると感じた。曲さんもこの交流会の報告を書いているそうなので、中国でも両国の障害者間の交流に関心を持ってくれる人が増えるかもしれない。
夜は参加関係者で大懇親会となった。諸団体の幹部や地元共産党書記らと席を並べる。「カンペイ!」とグラスを合わせたら飲み干さなければならない。女性の私にフロアの人も気を遣ってか、ビールをグラス3分の1までしか入れないようにしていたようだ。視覚障害者チーム全員で、「時の流れに身を任せ」を日本語と中国語で歌い、楽しい思い出の一つとなった。日本の歌は人気で、日本語は分からなくてもNHKラジオを聴いて「四季の歌」を知っている車いすのランナーがいた。「乾杯」の歌も中国で人気らしく、会場はダンスフロアと化し、筆者も連合会の理事に手を引かれフロアに出て行くことになった。
今後の課題
今回の中国側の参加者は、筆者より視力のある弱視ばかりだった。中国語しか通じない言葉の壁もあるが、もっと多くの障害者、特に視覚障害者に、走りたいと思えば障害のある人でもマラソン大会に出場できることを、障害者自身が言葉で伝えていくことが望まれる。それがエンパワーメントに繋がるはずだからだ。そしてもっと長距離が走れるよう、もっとたくさんの地元参加者が参加できるよう、中国サイドでも頑張ってほしい。大連に限らず、中国各地で少しずつ市民マラソンの文化が根付き始めているので、各地の大会が障害者の参加を受け入れるよう、また、マラソンを通じて日中の障害者の社会参加・地位向上が促進されるよう、日中の障害者が協力し多方面の協力を得て前進していきたい。私もそのための協力を惜しまない覚悟である。
(たばたみちこ アキレストラッククラブジャパン副代表)