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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年2月号

1000字提言

「自然よ! 鎮まって下さい。」

関宏之

あれから10回目のその時を迎えた。のうのうと生きてきた者にこの10年を的確に表現する術はないが、宝塚に住む私自身の体感的な記憶にもまた阪神間のあちこちにも震災の傷跡は数々の悲哀を残して居すわっている。「被災地は再生したのか・復興したのか」という報道や雑誌の特集を見ながら、立ち直ったという数値や外観とは裏腹に、「あの逝った命・くらしを返してほしい」という切ない吐露を前にただうつむくだけである。

東灘区で家屋が全壊した友は、瓦礫の下から聞こえてくる隣人の声に応じられず、身罷った方々をただ見送っただけだったと今でも泣く。障害福祉課長という要職にあった彼は、湾に客船を係留して仮設住宅とすることに尽力した。長田で保育園の園長をしていた友は、園児にまつわる一切やアジアからの人々の生活に関わりながら燃え尽きた。今年の年賀状に復帰すると書いてきた後輩は、震災後の数週間を市役所に寝泊まりしながら埃まみれになって動いていた。彼ら全員が、「逃げないこと」を社会福祉としてきた。

彼らが口々に言ったのは、「哀しい人はより悲惨な人に手を貸した。」という事実だった。本当にそうだった。また、やがて行政機関が関与するようになると、人々からはそのような気概が失せ、「何をしてくれるのか」が中心課題になったとも言った。「自助・共助」を「公助」という型にはめたときに「福祉」が終わるのだという。

10年前の次の日、引き受けていた学校では普通通りに授業をするという。電車を乗り継いで辿り着いた学校は平穏で、「障害者福祉論」を講じながら無力感に陥った。ライフラインの途絶という生命の危機に対処できない抽象論であるということ、また、地獄に直面している方々の存在を知りながら現場にいないという偽善、そして、あっけらかんとした学生と哀しみを共有することの難しさ。「黙祷をしよう…」とだけ言って授業を終えたが、涙が止まらなかった。その後、理工学部で「社会福祉論」を講じるようになった。

各地で災害が猛威を振るい、平穏ないのち・日々・くらしを奪っている。「自然よ! 鎮まって下さい。」というある新聞社の社説を読んで強くそう思った。現場にいるということは、「生きにくさ」を風化させず、それに寄り添うことだ、と思いを新たにした。

(せきひろゆき 大阪市職業リハビリテーションセンター所長/特定非営利活動法人大阪障害者雇用支援ネットワーク代表理事)