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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年7月号

特別企画 戦争と障害者

光明養護学校の学童疎開

松本昌介

二つの卒業式

「前略。皆(様)は光明校の特攻隊となって嵐の世の中に温室といふべきこの学校を巣立って行かれるのですから、先生方も私たちも机も芝生も学校のすべてのものが気をつけてね「さようなら」とやさしく、しかも雄々しく手をふり、日の丸をふりませう。
皆様は特攻隊ですから勝つ心と知識をしっかり身につけて堂々と嵐の世の中へ乗り出し精一ぱいに働いてください。
(略)戦ひは刻々本土に迫りつゝあります。いつ本土に敵がくるかも知れません。ヤンキーがきたら皆様も私達も共にがんばります。(略)かゝる戦局重大の時御卒業なさいます皆様の御健康と御幸福を心からお祈り申し上げまして送辞と致します。
昭和20年3月24日 東京都光明国民学校在校生総代 氏名略」

終戦前の最後の卒業式の送辞です。「本土決戦」の決意がにじみ出ていて「卒業おめでとう」などといえる気持ちではなかったでしょう。

実はこの数日前、先生と生徒たちは3月10日未明の「東京大空襲」を校庭の防空壕から見ているのです。明日の命もわからない、そんな思いの卒業式です。

「只今校長先生から私どもは修了證書を頂きました。終戦後第1回の修了生として本当に有難い事と感謝致します。其の上、平和日本、文化日本建設のため前途を激励してくださいまして一層力の湧く様な感じが致します。(略)激しい空襲の夜や此の上山田の集団生活も経験致しました。8月15日には一緒に泣きました。此の思ひ出と経験は社会に出てからの力の泉となるだらうと信じます。(後略)
昭和21年3月27日 東京都光明国民学校第11回修了生代表 氏名略」

戦後最初の卒業式です。平和日本、文化日本を建設するぞという意気込みの伝わってくる言葉です。疎開先のホテルの大広間での卒業式です。

現地疎開

B29が日本上空を思いのままに飛ぶようになり、都会の学童の疎開が始まりました。「足手まといを残すな」の掛け声によって一斉に地方に疎開することになりました。地方の親類を頼っての縁故疎開、縁故のない子どもには健康学園などを利用した疎開学園、そして学校ぐるみの集団疎開。地方の寺や旅館で教員、寮母と子どもたちの生活です。東京都の学童集団疎開は、1944(昭和19)年8月4日に第一陣が出発しました。

当時肢体不自由児の学校は全国にたった1校、1932(昭和7)年開校の東京都光明国民学校だけでした。肢体不自由児を受け入れるところがないということで、東京都は疎開先を本気で探そうとしなかったといいます。やむを得ず、教室に畳を入れ、校庭に防空壕を掘って、全校児童が学校に疎開します。現地疎開と称しました。1944(昭和19)年7月1日のことです。

世田谷の学校まで通学する児童もいたのですが、小田急電車が爆撃されるに及んで、通学もできなくなり、現地疎開に参加するか自宅待機かになります。1945(昭和20)年2月25日の江東方面の空襲で一人の児童の家が焼かれました。

3月10日の江東方面の空襲は世田谷から見ていても激しいことがよくわかりました。空が真っ赤になりました。

ここも安全ではない、どこかに疎開するしかない、東京都が探してくれないのなら自分で探すしかないと、松本保平校長は早速疎開地探しに出かけます。

冒頭に紹介した卒業式はこういう状況の中で実施されました。

集団疎開

1945(昭和20)年5月15日、長野県上山田温泉上山田ホテルで光明学校の集団疎開が始まりました。この生活が4年間も続くとはだれも考えませんでした。

疎開してから10日後の5月25日、東京は大きな空襲に見舞われ、世田谷の校舎は大部分が焼失、麻布の分校は全焼しました。疎開が後10日遅かったら、全員が寝泊まりしていただけに、大変な惨事になっていたと思われます。

疎開参加者は、児童50数名、訓導(教員)、寮母(児童の姉3人を含む)、看護婦など教職員10数名、生活を共にした付添数名(祖母1人、お手伝い6人くらい)など。児童の障害は、脳性マヒ、ポリオ、脊椎カリエス、股関節脱臼などでした。

校舎が焼けたため、帰京できず、4年間も疎開生活を続けたので、毎年卒業生が帰京するなどで児童数は少なくなり、最後に帰京した時は10数名でした。

終戦後は、疎開しなかった児童、引き揚げた児童などが一棟だけ残った校舎を訪れ、残留教員によって授業が行われました。

全国的には学童疎開は1946(昭和21)年3月31日に解消されました。校舎が焼失して廃校になった小学校もありましたが、障害のない児童はどこかの学校に通うことができました。しかし、肢体不自由児を受け入れる学校は少なく、多くの児童は家に帰れないという状況にありました。結局校舎ができるまで疎開生活は続けられました。4月からは親を失った児童保護のために設けられた措置の「戦災孤児等学童集団合宿教育所」という名目で疎開生活が続けられました。帰京したのは1949(昭和24)年5月15日のことでした。

各地の盲学校、ろう学校も同様で、校舎を失ったいくつかの学校は戦後も「戦災孤児等学童集団合宿教育所」として疎開生活を続けました。

疎開生活

光明学校疎開の特徴は、戦中期間が短く、戦後が長いということです。空襲に悩まされることもなく、夜もよく眠れたといいます。

一番困ったのは食料でした。戦後も食糧事情はなかなか好転せず、配給も少なく、伸び盛りの子どもたちは常に空腹状態でした。栄養の必要な結核などの子どもたちは、この時の貧しい食生活が後々まで影響したといいます。

終戦直後のある日の献立を4年生女児の「おかづ帳」から引いてみます。

「10月23日

朝………
みそしるは大根と大根の葉、いものくき 香のもの 大根
昼………
ざうすいの中にいも 香のものは大根の葉、大根、しそ、キャベツ
おやつ…
さつまいも 牛乳
夜………
みそしる 大根の葉としゃくしな 香のもの 大根と葉 皿の上に豆とこんぶと肉のカンズメ(光明学校の学童疎開を記録する会『信濃路はるか』より)

高学年の児童と教員、寮母などはリヤカーを引いて農家に買い出しに行きました。

「南瓜が一度に37個も入手できた時など、嬉しくて有頂天になって夕闇の中、鼻歌など口ずさみながら帰寮することもありました。」(「保母として」加田千鶴『信濃路はるか』より)

地域の婦人会が野菜、芋などを持って慰問に来てくれることもありました。

疎開中に学制が変わり、国民学校は小学校に、そして新制中学も発足しました。

卒業式はホテルの大広間で4回実施されました。冒頭2番目に紹介した答辞はこの時のもので、卒業した児童はあるものは帰京し、あるものは高等科に進み、疎開生活を続けました。

戦後60年

疎開を経験した唯一の肢体不自由校、都立光明養護学校の疎開生活を記録しようと、1993年、卒業生、先生たちと『信濃路はるか』という本を作りました。その本をもとにNHKや地元のテレビ信州でも番組が作られました。光明学校の疎開児童をあたたかく受け入れた当時の若女将が出演してくれました。

私は障害をもった子どもから家族との穏やかな生活を奪った戦争が再び起こってはならないと、この疎開について今でも継続して調べております。長野にも協力してくれる方が現れ、新しい資料を見つけてくれたりします。

今、上山田ホテルが中心になって千曲市(上山田町)に温泉博物館の建設が進んでいます。この展示に学童疎開も加えられることになっています。この平和な町にかつて親から引き離されながらも、町やホテルの方たちにあたたかく支えられて生活した肢体不自由児たちがいたという記録が残されるわけです。

盲学校、ろう学校にも戦後の長い期間疎開し続けた学校があります。そのことも忘れられてはならないことであり、何とかその事実を記録しておきたいものだと私は考えております。戦後60年に当たっての私の決意です。

東京都立聾唖学校(現東京都立品川ろう学校)は、神奈川県藤野町、相模湖町の5つの寺に分散して疎開しました。先日そこに疎開した女教師とその寺をめぐりました。当時疎開児童をかわいがったという住職の娘さんに会うことができました。同年齢の幼稚部の子どもとよく遊んだと思い出を語ってくれました。

山梨、愛知、富山などの盲学校、その疎開先も訪れました。こんな不便なところで視力障害をもった児童が何年も暮らしたのだなあと、山や川に囲まれたその景色を思い出しながら、ずっと、そして今も考え続けております。

(まつもとしょうすけ 全国肢体障害者団体連絡協議会)

※『信濃路はるか』田研出版(株)、2500円(税込)、1993年