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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年8月号

特別企画 戦争と障害者

「オリオンの哀しみ」戦時下のハンセン病療養所

清原工

水分かれの里

私の田舎は丹波山地の西端に位置し、水分かれの里とも言われている。本州で最も低いところに位置する分水界で、海抜100メートルにも達しないところを流れる小川が分かれ、一方は加古川となって高砂市あたりから瀬戸内海へ、一方は由良川となり舞鶴湾、即ち日本海へ注ぎこむ。もし、海面が100メートル上がったとすると、本州はここで分断される。(「感傷旅行」)

加古川と由良川の源流を遡ると、「氷上」という地名に行き当たり、氷上恵介という筆名が、この人の生地に由来していることを知る。「最も低いところに位置する分水界」から想像される、まろやかで優しい産土の光景は、温順であったというこの人の性格を象徴しているようでもあるが、その命名が、強い愛郷心によるのはまちがいない。

ただ、この人の瞼の裏に穏やかに広がっていたはずの懐かしの「分水界」は、後段、思いも寄らぬ「分断」へと導かれ、やにわに足を掬われたような感覚にとらわれるのはなぜだろうか。ちなみに、「水分かれ」は「みわかれ」(身別れ?)と読むらしいのだが、そんな些細な偶然にさえ、この人の境涯に想いを致し、巧まざる暗喩を嗅ぎ取ってしまうのは、さすがに考え過ぎというものだろう。

氷川の生地への愛着は、憎悪や怨嗟を底深く宿すほど、かえってもだしがたく狂おしい望郷の念であったかもしれない。なぜならこの人は、満15歳だった1938年から没年の84年まで、その生涯のほとんどを、ハンセン病療養所の中で送った人だからである。その半世紀近い時間は、さまざまな環境の変化はありながらも、ハンセン病患者とその回復者を社会から隔離した、旧「癩予防法」と新「らい予防法」に余すところなく覆われた時代だった。さらに最初の数年は、戦争という名の圧倒的な暴力も、ハンセン病者への二重の抑圧となって、厳しくのし掛かった。

「野道に人気がないことを」確かめ、逃散のように故郷を後にした氷上は、当初、長老派宣教師ジョン・メリー・コールが東京の目黒に設立した、私立ハンセン病療養所の慰廃園に入所した。戦争への坂道を転げ落ちるような時世だったが、氷上はこの時期、ハンセン病療養所から自らの実存を問う小説「いのちの初夜」などを発表した北條民雄に傾倒し、慰廃園の療友たちと同人誌を発行したりして、自らの文学的指向を培っていたらしい。

太平洋戦争突入から3日目、一時、病気が軽快して慰廃園を退所した氷上は、短い社会生活も経験した。しかし、翌年の夏には早くも病気が再発し、療養所に逆戻りしてしまった。日米の戦端が開かれたことにより、アメリカ人宣教師を設立者とする慰廃園は解散していたので、氷上は結局、東京近郊の東村山にある、国立療養所の多磨全生園に2度目の入所をした。そこは北條民雄が病を養い、その5年前、満23歳で生涯を閉じた療養所でもあった。

洗濯場事件

戦後、「らい予防法」が施行される前年の52年、氷上は、多磨全生園の機関誌『山櫻』の文芸特集号に「オリオンの哀しみ」という小説を発表し、野間宏の選で一席に入選した。

「オリオンの哀しみ」は一種のモデル小説で、40年、多磨全生園(当時は、第1区連合府県立全生病院)で実際に起こった、洗濯場事件を下敷きにしている。40年といえば、氷上はまだ慰廃園にいた頃で、後年、「もう少し事件の真相を調べて書けばよかった」と本人も述懐していたというように、おそらく、事件を記憶する療友からの取材などで「オリオンの哀しみ」を書いている。小説としてのプロットも、事件とは少しく異なっているので、まず、事実としての洗濯場事件について、大要を記しておこう。

療養所は、本来、医療施設であるはずだが、当時のハンセン病療養所では、入所者は療養所からの「逃走」を防ぐため現金を取り上げられ、その実、日に何銭というわずかな作業賃を得るため、病身をすり減らして、さまざまな労働を強いられているのが現実だった。重症者の介護しかり。入所者が死亡しても、故郷に帰ることはおろか、激甚な感染源であるかのように喧伝されていた遺体を所外に搬出することは許されず、所内に設けられた火葬場で、療友を荼毘に付す火夫さえ、入所者自身が担っていたのである。

洗濯場では、物資の欠乏が甚だしかった当時、何回も使い回しされる、血や膿の付いた大量の包帯やガーゼ、病衣やシーツなどを洗濯する作業が行われていた。何台も設えられた直径2メートルほどの樽のような洗濯機の排水穴からは、「汁粉」のような色をした汚水がコンクリートの床にそのまま流れ出る仕組みになっていたというが、これらの作業に当たっていた入所者には、穴が開いていない、満足な長靴が支給されることさえままならなかった。

ハンセン病は、末梢神経や皮膚、眼などが傷害される疾病なので、病者は足の裏などの無感覚部に、外傷や火傷、潰瘍をつくりやすい。にもかかわらず、かれらの足には、長靴の穴から絶えず汚水が流れ込んでいたのだから、否応もなく傷を悪化させ、著しい場合には細胞が壊死して、脚部を切断するような者もあったという。

当時、洗濯部の主任だった山井道太は、施設に対して、穴が開いていない長靴の支給を要求したが拒否されたため、洗濯部の部員たちは作業をサボタージュした。このサボタージュを煽動したのも、やはり主任の山井であるとされたが、この糾弾にはまた別背景もあったらしい。

戦時色が深まりつつあったこの時期、国民統制を企図して組織された「常会」などの仕組みがハンセン病療養所にも持ち込まれ、多磨全生園でも、全生常会が結成された。山井道太は、戦時体制の形成期における、統制の犠牲者であったかもしれない。山井は洗濯部の他、所内で栽培が行われていた、製茶部の作業も兼務していたというから、その繁忙期に起こった洗濯場のサボタージュ自体、どれほど意識的なものであったかという疑問も残るようだ。

理由ハ発表スルヲ得ズ

しかし、この洗濯場事件の本当の悲劇は、事件の煽動者とされた山井道太が、当時、療養所の院長に認められていた入所者への検束権のもと、十分な調査もなされないまま、群馬県草津の国立療養所、栗生楽泉園に設けられていた、特別病室へ送致されてしまったことである。この件については同日夕、次のように報告されている。

「山井道太、山城秀徳、関口力之助、竹内重平、右4名ヲ院則ニヨリ草津療養所ニ送レリ(キタノハ処分ニアラズ、山井道太ノ配偶者トシテ自発的ニ同行セシモノナリ)
右ノ処分ニ就テノ詳細ナ理由ハ発表スルヲ得ズ、
又、院長ノ警察権発動ナル故、事前ニ如何ナル院内機関ヘモ通知スベキモノデハナイ、……」

竹内はモルヒネ中毒者で、山城と関口は、療養所からの「逃走」が送致の理由らしいが、いずれにしても当時の報告では、「理由ハ発表スルヲ得ズ」であり、事前に「通知スベキモノデハナイ」とされた。山井の連れ合いのキタノについても、「自発的ニ同行」したのではなく、彼の内妻という理由で同罪とされ、送致されたというのが真実で、山井と同期間、特別病室に入室させられている。

栗生楽泉園の特別病室は38年に設置されていたが、実際には重監房だった。標高1000メートルもの高原に設けられた重監房には、暖をとるもの一つなく、その厳冬期は厚い積雪に覆われ、凍死した収監者もあったという。

山井の場合は、梅雨時の猛烈な湿気と戦いながら、42日間にわたって収監された。独房の中には電球もなく、外光も房の高所に穿たれた小窓からしか差し込まなかったから、昼間といえども暗闇のなかでの、険しい耐乏であったことだろう。1日に握り飯一つ、梅干し一つという、ほとんど飢餓的な状態の中で、山井は当然のことながら、急激に病を重らせていった。山井は、7月18日に特別病室を出されたが、9月1日に死亡している。

山井への処分は、戦時下の統制を強化しようとしていた矢先、療養所の中で、これに障害となる行動の波及を封じ込めるために行われた、一種の見せしめ的制裁であったかもしれない。しかし、この洗濯場事件は、その後過酷さを増幅させながら療養所をまるごと取り込んでいく、戦時下における惨状の、ほんのとばくちで起こった事件でもあった。

絶対的な支配者

洗濯場事件が起こってから、わずか1か月後の7月1日、全生病院は国立に移管され、「療養所生活五訓」が定められた。その中で、入所者は「皇軍兵士ノ心ヲ心トシ」「公益優先」「銃後奉仕」「感謝報恩」を旨として「大成ニ翼賛」することが求められている。

もとより、36年11月には、司法省が、戦死者の戸籍簿には「死亡」ではなく「戦死」と記載するよう、市町村役場に通達していた。国民のいのちは、国に捧げられたものであり、「銃後」に生きているということ、それ自体に原罪を覚えねばならない時代だった。まして当時のハンセン病者は、隔離により一掃されれば、「民族浄化」が実現するとされていたのだから、かれらは生きて、存在していること自体を否定されるような惨い差別のなか、生き地獄に「生かされて」いたのである。

44年10月、全生園の入所者から国防及び恤兵献金という名目で集められた募金は、総額7,975円余、一人当たり7円余に上っている。現金を取り上げられ、日に何銭の作業賃を得るために使役され、傷を悪化させて脚を切り落とされ、重監房で絶命した者までいるなかでの、この信じられないような収奪には、ただ唖然とさせられる。

昨年の春4月、アメリカの艦載機は日本を初めて襲った。然しこの武蔵野の一隅では、人々から忘れられた存在の中で千人の患者は次々と作られ発表されるスローガンをそのまま鵜呑みに信じ、祖国は必ず勝つものと決めて何んの疑いも持たなかった。が物資の欠乏は生産、労働能力を持たない者ほど惨めである事はどことも変りはなかった。

「オリオンの哀しみ」では、山井をモデルとする洗濯場の主任は、中原という名の青年である。そして、同じく洗濯場で働く療友の由木と、由木の妹和江の、3人の心理を軸にしてストーリーが展開する。中原の「草津送り」が決まったとき、中原を思慕していた和江は、兄の由木に苦しく問い掛ける。

「なんとかして中原さんを呼び戻す方法はないの」
「ない。訴える所もなければ、この不当の非を叫べる一寸の土地も俺達はもたないんだよ」
「なぜ!」
「弱いから――」

これ以上言う必要は無かった。この弱さを踏み台にして絶対的な支配者が君臨しているのだ。

戦争はいつも、もっとも弱い人間を踏み台にし、それを圧殺して止まない無慈悲な支配者だ。けれども、その圧倒的な暴力のもと、社会から隔絶されたハンセン病療養所においてさえ、やはり人間の温かい情愛や、まっとうな正義を放擲しない人たちが、確かにそこに「生きていた」と知ることが、この小説の放つ、もっとも貴い光明といえるだろう。

(きよはらたくみ フリーライター)