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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年9月号

文学にみる障害者像

デビッド・ゾペティ著 『いちげんさん』に描かれた視覚障害者女性像

大藪眞知子

フィクションとの付き合い

最初から誠に恐縮だが、どうしてもお断りしておかなければならないことがある。というのは、ここ10年来、フィクションというものとあまりきちんと付き合いをしていないのである。小説であれ、ドラマであれ、あるいは映画であれ、フィクションゆえの無限の可能性はもちろん認めているし、信じてもいるのだが、逆にその限界を感じることもしばしばで、それが付き合いの浅さの誘因なのだと思う。

さらに、ずっと以前から、障害者、とりわけ視覚障害者を取り上げたフィクションとなると、全くといっていいほど食指が動かないのである。私は弱視であり、幼い頃から大勢の視覚障害者と接し、現在に至るまでその社会の中で生きてきた。一字を読むごとに、あるいは一場面を見るごとに、それは違う、そんなことはありえないなどと反応して、勝手に苛立ってしまい、必ずといっていいほど途中でやめてしまうのだ。客観的に捉えようとするあまり、かえって感情的になってしまうのかもしれない。

さて、こんな状況下にありながら、小説の評論めいたことを書かなければならないとは、書く本人より、それを読まされる読者諸氏に多大の迷惑を掛けてしまいそうだ。ともあれ、なるべく客観的に、かつ楽しみながら読み終え、なるべく素直に分析して書ければと念じている次第である。

したたかさと神秘性

『いちげんさん』の舞台は1990年の京都。スイス人留学生の「僕」と、全盲女性京子との出会いから別れまでの1年余りを描いたラブストーリーである。ただ、物語の本質は、単なるラブストーリーではないと思うのだが、それについては後に述べることにする。文学を読みたい京子が、お互いにプラスになるだろうと、留学生にボランティアを依頼し、近現代の日本文学を専攻している「僕」がそれを引き受けたところから物語は始まる。「僕」は、世界を転々と旅する、言わば自由きままな人生を愛する人物、これはおそらく作者自身がモデルなのだろう。物語自体もかなり作者の実体験に基づいているようだ。

一方の京子は、京都の黒谷という、閑静な場所にある路地の奥の古屋に、母親と2人でひっそりと暮らしている。「僕」に出会う前年に東京の大学を卒業し、母と共に亡くなった父の出身地である京都に引っ越してきたという設定である。この設定そのものがまず神秘的である。そのうえ、母親はいつも和服を着ているし、彼女たちの周りには、全くといっていいほど生活臭が感じられない。そして、当然のように、京子は美しい女性なのである。

さて、次に、京子はしたたかな女性である。それは彼女の台詞や動作のあちこちに見て取ることができる。たとえば、「そんなくだらないこと…」という言葉が随所に表れる。それに類似した表現も多く、その部分を読むごとに、生意気さを超えてしたたかさを感じるのである。あるいは、対面朗読を受けながら、突然膝枕を要求したり、相手を挑発するような作品を選んだりする。極めつけは、新年に「僕」が京子の家を訪れ、遅くなったので、泊まることになったとき、真夜中に全裸で彼の寝床に入り込んでくるシーンだ。母親は眠っているかもしれないし、2人の関係にすでに気付いているようだが、それにしても大胆である。

フィクションが全盲の女性を扱う場合、誇張するほど神秘的に捉えていることが多いように思う。この作品の場合もその点に関してはご多分に漏れない感がある。しかし、他の作品中によく見られる真面目で清純で、といったパターンは、ここには見えてこない。私が視覚障害女性を描いたフィクションに食指が動かない最大の理由は、まさにこの、真面目で清純で、といった女性像に嫌悪感に近いものを感じるからなのである。これが、この作品を新鮮なものにしているのである。

京子のしたたかさについては、もしかすると健常者にはあまり感じられないのかもしれない。むしろ、若さゆえの怖い者知らずというふうに受け止められるのではないだろうか。しかし、社会的弱者がそれなりに生きていこうとすれば、実際にはある程度のしたたかさは必要なのである。京子は基本的に強い女性なのである。

別れ…作者が一番書きたかったことは?

さて、2人はお互いのどこに惹かれ合ったのだろう、とふと考えてみる。しかし、それはこの小説を読むうえでは、大した問題ではないような気がする。それよりも、なぜ別れることになったのか、そちらのほうが重要である。京子は経済的自立を求めて就職のため上京する。「僕」は4年間過ごした日本に、そして京都に絶望してそこを去り、旅立つ決意をする。

京子はすでに精神的にはしっかり自立しているように読み取れる。だからこそ経済的自立をすることを強く望んだのだ。ラストシーンで、彼女が初めて折りたたみ式の白杖をぱっと伸ばして、「僕」の前から立ち去っていく場面に注目する読者は多く、映画でもそこにかなりポイントをおいていたようだ。おそらく、それが自立と別れのシンボルということなのだろう。しかし、それが本当にこの物語の重要な部分なのだろうか。それよりも「僕」が日本を去ろうと決めたことのほうが、大きな位置を占めているのではないか。

「僕」は、日本と日本文学に関心を持ち、京都に漠然と憧れてやってきた。しかし、日本人の「外人」に対する態度、とりわけその視線が耐えられない苦痛を彼に与え続ける。さらに、京都の街が持つ排他性と閉塞性は、常に彼を苦しめてきたのだった。この京都の街にはびこる雰囲気をそこで生まれ、現在そこに暮らす私も、悔しいが常に感じているところである。

彼が日本を離れたくなった最後の決め手は、卒論面接だった。ろくすっぽ中身も読まずに、くだらない質問や指摘をしてくる教授たちの態度に、この4年間自分はいったい何をしてきたのだろうという焦燥感を抱いたのである。そして、今までの苦痛が一気に吹き出したのだった。

作者が一番書きたかったことは、日本の、あるいは日本人の、京都のあるいは京都人のお粗末な「外人」感だったのではないか。

ある時、「僕」は、京子にだけは見られていない、それが彼女を慕わしく思う主要素だと考える。その考えには素直に同調できないが、人々の視線がそれほどまでに彼を苦しめていたのだった。

やはり気になる現実との違い

作品中、京子の動作やものの感じ方など、とても正確に表現されているのには感心した。やはり実話に基づいて書かれたから、ここまで正確な表現ができたのかもしれない。けれども、どうしても気になる部分がある。私は元来絡みやだから、申し訳ないが、黙っていられなくなる。

それは、2人が初めて対面したときの京子の台詞である。自分は文学が読みたいのに、名作といわれるものがほんの少し点訳されているだけだ、という。物語は今から15年ほど前が舞台だが、文学の点訳書が他のジャンルに比してそんなに少なかったはずがない。点字図書館や公共図書館も利用できる。東京の大学を出た彼女が、その手段を知らないはずはない。さらに続けて、鍼灸の本や聖書みたいなくだらない本や、六法まで点訳されているのに、六法なんてだれが読むんでしょうね、とくる。ここは小説中最もいただけない部分である。これは単に京子の価値観なのだが、健常者に誤解を与えかねない。鍼灸は視覚障害者の大切な職業であり、心の拠り所としてキリスト教を信仰している人は多くいる。さらに、この時点でも、視覚障害者の司法試験合格者はすでにいた。

最後に、これは全く蛇足だが、やはりこれからもこの手のフィクションを好んで読むことはないような気がするのである。

(おおやぶまちこ 花園大学非常勤講師)

※ 『いちげんさん』集英社、1996