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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年11月号

文学にみる障害者像

田山花袋著 『重右衛門の最後』

榊原剛

『重右衛門の最後』の初出は、明治35年5月。それまで叙情的な作品を書き続けてきた花袋が、ゾラ、モーパッサンなどのフランス自然主義の影響を受け、人間を過不足なく、赤裸々に描こうとした転換期に書かれたものであり、わが国における本格的自然主義を形成する契機となった、重要な作品のひとつである。

「自分」こと富山は16歳のときに東京に遊学し、麹町の中6番町の速成学館という小さな私立学校で、山県、根本、杉山という青年たちと親しくなった。しかし、彼らは雄図むなしく途中で挫折、次々と故郷の長野県塩山村へと帰っていった。

それから5年後の夏、富山は塩山村を訪れ、消火演習をしている村人の中に根本の顔を見つける。根本の家で富山は、度重なる放火騒動のために、この一見平和な村が不安と恐怖に陥れられていることを知る。犯人はこの村の藤田重右衛門という歳の頃42、3の男で、身寄りのない獣のような少女を手先に火をつけさせていたが、この少女が人間とは思えぬほどの敏捷さで現場を押さえることができず、警察でも捕らえることができないでいた。

藤田家というのは、かつては田の十町も所有して、小作人も7、8人使ったことのあるなかなかの家柄で、祖父母も慈愛心の深い好人物であった。子がないため夫婦養子を迎え、その間にできたのが重右衛門である。子のないところの孫であるため、祖父母の寵愛は並々ならぬものだったが、悲しいことに重右衛門は生まれながらの大睾丸であった。幼い頃の重右衛門は、その先天的不具のために友達から馬鹿にされた。それをかわいそうに思う祖父母から、ますます重右衛門は溺愛され、かつ自分を不具に生みつけた父母への憎悪があいまって、重右衛門と父母との仲は非常に悪かった。重右衛門17歳の時、祖母が老衰で死に、養蚕事業に失敗して田地を失った父母は、彼を祖父の元に置いたまま家を出てしまった。溺愛する祖父との生活は、彼を無頼の自然児に成長させた。重右衛門は家の衰退にも頓着せず、湯田中の遊廓で女を知り、家の金を持ち出すほどにはまり込む。22歳で祖父が死ぬと、重右衛門は帰ってきた父母を再び追い出し、家の財産を抵当に放蕩の限りを尽くした。

その後、一時は身を固めようと村人の世話で妻をもらったが、1年経っても子ができず、妻は猟師と密通してしまう。

それ以来、重右衛門はすっかり身を持ち崩し、抵当に取られた家に火を放って監獄へ送られるということを繰り返すようになる。数年経って出てきても、相変わらずの無頼漢で、ほとんど傍若無人という有様だった。村人たちも重右衛門を持て余すようになり、重右衛門の村人への反感も高まって、ある時、「何だ、この重右衛門一人、村で養つて行けぬと謂ふのか。そんな吝くさい村だら、片端から焼払つて了へ」と怒り、それから放火騒動が起こるようになったのである。

富山が、根本、山県らと懐旧談に花を咲かせている最中、山県の家に火がつけられ全焼し、その翌日には根本の家が燃えた。幸いにも小火で済んだが、その手伝酒の席に、自ら火をつけながら現れた重右衛門は、村人に惨殺され田池に棄てられた。警察はその死因を怪しみはしたが、泥酔して田池に落ち溺死したということで処分した。重右衛門の死骸はかの少女の手によって焼かれたが、その夜、全村が火に包まれた。翌日、富山は灰燼の中に、少女の焼死体を発見するのである。

花袋はいうまでもなく日本自然主義文学の中心作家の一人であり、同時にまた自然主義イデオロギーとしての中心的存在でもあった。彼にはゾライズムの摂取が色濃くみられ、『重右衛門の最後』においても、その先天的不具と環境による後天的な性格形成を悲劇の原因とするところは、自然科学的な原則を重要視したゾラ的方法の感化に他ならない。特に、重右衛門の先天的不具を説明するのに、何ら関係のない母方の人殺しの血統を持ち出し、あたかもそこに起因するかのように強調しているのは、まさしくゾライズムの適用である。

自然主義の概念が、自然科学の発展に裏付けられた自然観、人間観に基づくものであることは、花袋も十分理解していたであろう。しかし、彼独自の自然主義的な自然観、人間観は、形而上学的性格も帯びていたのである。

花袋は重右衛門や野性的な少女を自然児として描き、自然科学的な人間観に基づいて、エゴイズムや本能的、動物的な性格をそこに表した。しかし自然児は、「自然の発展の最も多かるべき」ところでありながら、「歴史習慣を太甚しく重んずる山中の村」では、自然であることが不自然と化し、ついには禍となってしまった。山中の村人の閉鎖性や因襲性は、形而上学的な自然観からみれば、自然児を受け容れられるはずもなかったのである。花袋は、東京に居ながら山中の村の平和や自然を慕っていたが、そこに暮らす人々からは次第に自然の面影が失われつつあることを嘆き、重右衛門や少女に深い同情を寄せている。

ところで、無頼漢で傍若無人な重右衛門も、その生涯においてただ一度だけ、胸中の悲痛を発露させたことがある。家が抵当に取られたころ、重右衛門は金を借りるために、上尾貞七という男の家を訪ねた。貞七は、一時は零落して村に身の置き所がなくなり、奮起して江戸へ出て巨万の資産を作って凱旋し、村一番の富豪となった男であった。彼は重右衛門の言うがままに金を貸し与え、そして、「生まれた村というものは、まことに狭いもので、とても其処に居ては、思ふような事は出来ない。私なども覚えが有るが、村の人々に一度信用せられぬとなると、もう何んなに藻掻いても、とても其村では何うする事も出来なくなる。お前さんも随分村では悪い者のやうに言はれるが、何うだね、一奮発する気は無いか」と忠告した。すると、重右衛門は頭を垂れて涙をほろほろと落とし、「私なんざァ、駄目でごす」と、自由にならない自分の身体を嘆くのであった。貞七は、「本当にそんな事は無い。世の中にはお前さんなどよりも数等利かぬ体で、立派な事業を為た人はいくらもある。(略)私ア、東京にも随分知つてる人も居るだて、一生懸命に為る積なら、いくらも世話は為て遣るだが」と言葉を継ぐのだが、重右衛門は「体格さえこうでなければ、今までこんなにして村にまごまごしているんじゃ御座せんが。私は駄目でごす」と、なおも涙をほろほろと落とすのであった。

貞七はこの時、重右衛門を本当に気の毒に思って、なぜ村はあのような弱い憐れむべき者を虐待するのかと、心から同情したという。しかし、貞七の言葉にもあるように、村では一度傷ついた信用を回復することは難しく、それでもなお村から脱却することもできずに生活していくには、重右衛門の境遇はあまりにも暗かった。

重右衛門はその先天的不具のために、奮起して立身しようと思ってもままならず、加えて自我一方に形成された性質もあいまって、自暴自棄になっていくのである。この悪循環をどうすることもできず、彼は村から厄介者扱いされ、とうとう決別するに至るのである。

しかし果たして、事実はそうであろうか。

花袋によれば、「『重右衛門の最後』ですか。あれは全く那通りの事があったので、現に私は其をみました」(事実の人生)ということであるが、実際、この事件にはモデルがあった。事件が起こった村は、長野県上水内郡三水村(現 長野県上水内郡飯綱町)大字赤塩で、藤田重右衛門(本名)は当時31歳。彼は18歳の早婚で四つ年上の丸山ちせをもらっている。祖父の死後にちせと離縁し、岡田サキと結婚。しかしながらこの結婚も長くは続かず、重右衛門は大川長之助の妻ゆしと姦通した。そのゆしの娘りもが、重右衛門の放火を幇助した少女である。事件の直接的原因は、姦通に対する村人の糾弾であり、重右衛門は全村放火という復讐手段にでたのであった。

花袋がこの事件を基に『重右衛門の最後』を書いたとすれば、独自の自然概念による人間把握のみならず、そこに人間存在に対する深い洞察を感じるのである。

(さかきばらたけし 山梨大学知的財産経営戦略本部マネージャー)