「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年1月号
新春インタビュー
「開発と障害」こそ今後の課題
世界銀行障害と開発担当アドバイザー
ジュディ・ヒューマン氏に聞く
◆聞き手◆
アジア・ディスアビリティ・インスティテート、本誌編集委員
中西由起子
アメリカの障害者の権利擁護の運動家であったジュディ・ヒューマン女史が世界銀行の障害と開発担当アドバイザーに就任して3年が過ぎた。期待どおり彼女はすばらしい活動を次々と展開し、世銀は障害分野で世界をリードするようになった。今回、財団法人広げよう愛の輪運動基金創立25周年記念式典のために久しぶりに来日した彼女に、障害への取り組みについて語ってもらった。
▼世銀の「障害と開発に関するグローバル・パートナーシップ(GPDD)」はすばらしい成果を上げていますね。もう少し詳しくGPDDについて紹介していただけますか。
GPDDは、ウォルフォウィッツ総裁から資金を得て始めました。プロジェクトができて2年以上になりますが、多くの可能性を秘めています。これまで開発と障害分野にいた人を広範に集めていることは成果だと思っています。資金提供団体、障害団体、NGO、政府、国際開発団体が初めて一緒になって障害問題を語り合い、お互いの経験から学び合い、できることを探してきました。
▼残念ながらアジアからのGPDDへの貢献は少ないように感じますが。
今回の来日では、滞在中に国際協力銀行(JBIC)や国際協力機構(JICA)、国際開発高等教育機構(FASID)と会見しました。JICAは当初からGPDDに参加してくれています。2002年のワシントンと2004年のイタリアでの会議には出席してくれました。JBICやFASIDにもGPDDのパートナーになるよう勧めました。GPDDはだれにでも開かれているので、日本にももっと参加していただきたいと考えています。私が来日したことで、日本からの参加者が増えることを期待しています。また日本はアジア・太平洋地域の中で多くの支援を行っているので、ぜひ情報をGPDDとわかちあってほしいと思っています。
皆さんには、世銀のウエブサイトにアクセスすることをお勧めします。そこにGPDDへのリンク(www.worldbank.org/disability/gpdd)がありますので、ぜひサインインしてほしいですね。そして世界で今何が起こっているのか考えていただきたいと思っています。GPDDに参加するにはメンバーとパートナーがあるのですが、私はこの機構をさまざまな関係者が今後パートナーとして、定期的に意見を交換しあう場にしたいと考えています。教育、貧困削減、人間の安全保障などの会議に参加する障害当事者団体や障害者の支援も行っています。現在の一番の課題は、開発機構との連携です。
▼2004年末のインド洋津波の際に、世銀は多くの貢献を行いましたが、パキスタンの地震では十分ではないと思うのですが、どうしてでしょうか。
パキスタン地震では、津波の時と同じアンケートを関係者に送ったのですが、十分な情報が得られませんでした。再度送ったのですが反応はやはり芳しくありませんでした。津波の被害の様子がテレビで集中的に取り上げられたのは、多くの欧米人が被災したのがその理由の一つです。今回アンケートを地震直後に送ったのがよくなかったようです。2度目になってようやく情報が集まりはじめました。
パキスタンの場合にはインドネシアほど欧米の援助団体が入っていなかったのも被害報告が少ない理由であると考えています。津波では、被災国ですでに活躍していたワールド・ビジョン、ハンディキャップ・インターナショナル(HI)、障害者インターナショナル(DPI)などが多くの情報を流しましたが、パキスタン地震では、独自に支援活動を始めたDPIとすでに入っていたHIなど数える程の情報源しかありませんでした。GPDDが国際社会に認められて支援が得られれば、もっと可能性をもち、10年という長い期間で見れば貧困削減に影響を及ぼせると考えています。
▼今まで仕事で世界を回り、さまざまな経験をされたと思いますが、どのような発見がありましたか。
アメリカをはじめ、日本やカナダでもほとんどの人々は貧困の問題がどれほど深刻なのか理解していません。解決策は一様ではないと思いますが、解決策の一つである障害者団体の発展は重要です。貧しい国では障害者の声は聞かれず、慈善モデルの支援が相変わらず行われています。私はさまざまな国を訪ねて障害者団体の人たちと会いましたが、彼らと世銀と結び付けお互いに学んでもらうことも重要だと考えています。
障害者に対する差別は世界中同じであることも学びました。障害者が直面するスティグマは大小の差はあるもののどの国にもあります。スティグマをなくす努力は大切です。障害者は貧困層の中でも最も貧しいのです。
他に感じたことは、障害に関わる人々はもっと人権と経済開発を考えなければならないということです。どちらかが優先されるのではありません。衣食にもこと欠く状況では人権の問題は後回しにされます。我々は開発のプロセスから意識的に学び、障害者団体を強化し、開発団体を強化する以上に市民社会の中に入っていかなければなりません。彼らが障害問題を理解すれば、我々が今やっている障害児や女性障害者のインクルージョンなどにおいても支援の基盤を広げることができるのです。
▼10、20年前と比べると障害者はエンパワーされたと思っています。これは世界的な傾向でしょうか。
そうですね。世界の都市部には障害者団体があり、障害者はエンパワーされています。しかし、農村地域ではその数は少なくなります。障害当事者団体だけでなく、他の団体の数も少ない状況にあります。我々は、世界の70~80%の人が住んでいる農村地域で起きていることをもっと知る必要があります。
しかしウガンダは違いました。ウガンダには通常の出張より長く滞在し、農村も訪問しました。ウガンダがすばらしいのは、憲法で村のレベルから始まる各レベルの委員会に障害者の男女を一人ずつ入れなければならないという規定があることです。町から4時間ほど行った電気もなく水も汲み上げて使っているような村で、私は電動車いすで自由に動き回りました。村落委員会の委員をしている障害者の男女に会いましたが、彼らはパワフルでした。
私はいつも訪問先に電動車いすで出かけます。もちろんそこに住むのであれば車いすで動ける道がないとか、充電するための電気が来ていないなどの問題はありますが、概して農村のほうがずっとアクセシブルなのです。雨が降れば難しいかもしれませんが、ゆっくり歩き回り景色も楽しめ、急なスロープもありません。だれに押してもらうこともなく、私一人で道を行くのを村の人が目にする。重度の障害があってもできるのだと見せることは意義があります。
世銀は私のために、各国の世銀事務所に移動式スロープを準備してくれています。旅行すればわかりますが、アクセスの悪い所はたくさんあるし、省庁の建物は往々にして入り口に階段があるので、12フィートに伸ばせる移動式スロープは役に立ちます。スロープがあればどうなるかということを人々に分からせることもできます。障害者は旅行する時に、アクセスを完備すればどういうことが起こるのかを教えることができるのです。
世銀が関与しているプロジェクトはさまざまで、インドの貧困削減のプロジェクトは成功例と言えます。大規模プロジェクトの一部として障害問題を入れ、政府に障害問題は重要だと理解してもらいました。パラグアイでは学校に少額の資金を提供し、スロープの設置やドアを広くするなど、学校をインクルーシブにするための整備を行いました。ベトナムでは交通機関のアクセスと障害児教育のプロジェクトが進行中です。教育は、南米、南アジア、東アジア、中東、東ヨーロッパでは特に、多くの国が参加してほしい分野です。
もう一つお話ししたいのは、障害をもつ若者の障害分野での活動成果です。世銀は過去数年障害をもつ青年に焦点をあててきました。「青年の声」というプロジェクトで、各国世銀事務所で実践されています。そのプロジェクトの多くが障害をもつ青年を参加させています。
▼もし未来を占えるとすると、今年は障害者の権利条約に関してどんなことが起こるでしょうか。
現在、国連で討議中の障害者の権利条約はいろいろな意味において重要です。国連、障害コミュニティ、政府が行っている仕事は単に草案づくりではなく、その討議の長いプロセスが教育的な働きをして、お互いが理解し合い答えをみつけていく。条約が採択されたら、各国を回り批准を勧めたいと思っています。
権利条約は再来年には成立してほしいと願っています。世銀を代表して言うのではありませんが、議長のマッケイ氏はすばらしい仕事をしています。世銀は条約のすべての会議に参加し、今までの政府に伝統的に諮問を行ってきたように、重要な会議であると考えたので技術協力を行ってきました。水晶玉で未来を見てみると、援助団体、障害団体、政府は今までよりもっと仕事が忙しくなるでしょう。
第2次アジア・太平洋障害者の十年の行動計画としてつくられた「びわこミレニアム・フレームワーク(BMF)」がこの地域にはあるので、権利条約が各国で批准されるのはそう難しくないのではないかと思います。BMFの枠組みで活動している各国政府にとっては、権利条約はまったく新しい課題ではありません。そのためBMFを受け入れている国では、活動が増加しています。加えて、アジア・太平洋地域で日本政府がAPCD(アジア太平洋障害開発センター)と共に行っているリーダーシップ開発は、権利条約の実施のためにも、貧困削減のためにも重要であることを申し上げたいです。
来日中のスケジュールもぎっしりと詰まり、彼女は相変わらず忙しそうであった。日本に来て、大好きな日本食の朝ご飯を食べ、緑茶を飲んで元気をつければ大丈夫と言いつつ、あたふたと次の会議へと向かっていった。