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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年1月号

1000字提言

サイボーグになった僕

松山智

日進月歩で開発、改良されている最先端医療器機。かく言う僕も、実はサイボーグ。5年ほど前、補聴器すら役立たなくなり、気持ち的にすごくネガティブになっていた。「音が聞こえなければ、この厳しい社会を生き抜くことすらできないんじゃないか」「どうやって聞こえる人とコミュニケーションしていけばいいんだ」と、4年間続いていたサイレント時代はいつも悩んでいた。

そこで聴神経を取り除き、【人工内耳】装用のサイボーグとなった。僕の欲求はある程度満たされた。が、「松山くん、もうフツーの人になったんだよね!!良かったじゃん!」「手話なしでも、余裕でしょ!?」などと、訳の分からないことを言われるたび、僕は決まってこう言っている。「いや、フツーじゃありませんし、ましてや聴者にはとうていかないませんから。それにいくら人工内耳というハイテクものを埋め込んだところで、聴覚のみでの会話はほぼ不可能です」と。それだけじゃない、物理的な不便さは補聴器以上。確かに、はたから見れば、最先端医療器機を埋め込み、職場では口話でコミュニケーションしている僕は「非障害者だ」とお世辞にもそう言ってくれることは、正直うれしい。「障害者扱いしていないんだよ」という非障害者側からした思いやりなのかもしれない。でも僕は「聴覚障害者」。隠したくもない。むしろ、周囲に理解してもらわなければ、「松山って、いつもシカトするんだよね」と言われかねない。また、周囲が僕のことを知って、さらに僕に合ったコミュニケーションを身に付けてくれればと思う。

そんな僕も、日々口話で神経を集中させるため、非常に疲れる。サイレントワールドに戻りたくなる。そんな時は、車内で電源をオフにし、車窓を眺める。これぞまさに至福の時。こういう使い分けができるのも、僕がサイボーグだからだ。

サイボーグになったことで、制限されたこともいくつかあるが、得たもののほうが多い。長かった失聴期間では、テレビも映画も無声。過激なカーアクションすら無音だから、リアルさに欠ける。そんな失聴ブランクから脱却し、「音」を得た喜びはものすごく大きかった。

どんな素晴らしいサイボーグ技術が開発されたとしても、完全なものはない。故障もする。うまく自分と機器をマッチングさせなければ、威力は発揮してくれない。

たとえ人工内耳から得られた「音」が機械的であろうと、「音」が存在し、それを楽しんでいる。「音」があることへの安心感はサイボーグになったことで得られた。小さなことかもしれないが、音というものの素晴らしさに日々感動を覚える。

(まつやまさとし 会社員)