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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年2月号

ブックガイド

障がいを感じる絵本

桂律也

筆者の所属する日本リハビリテーション工学協会車いすSIGでは、車いすの歴史に関する資料を収集している。その一環として筆者が古い車いすが登場する書籍を集め始めたのは2000年前後からである。元来、絵本好きであったこともあって、車いすに関するものだけでなく障がいのある人が描かれている絵本全般を収集し始め、今では一般向けに市販されている絵本だけでも和洋あわせて300冊弱となっている。

絵本における障がいの描かれ方はさまざまであるが、多くはそれが描かれた時代の社会的背景が見え隠れする。また、障がいのある著者の作品では、読者の多くを占める子どもたちに向けた平易な言葉を使いながらも、社会全般に対する著者の主張が潜在していると感じられるものも多い。

筆者の情報集能力と古書市場に出回る数の問題かもしれないが、1970年代までは障がいのある人が登場する絵本は非常に少ない。国際障害者年と国連・障害者の10年を経て、年を追うごとに出版数は増えている。これらのうち、障がいのある人とその生活などが主題として取り上げられている80年代の絵本・児童書については、「やさしさに出会う本」(菊地澄子他(編):ぶどう舎)に主なものがまとめられている。障がいを扱う児童書や絵本が「やさしさに出会う本」であるという紋切り型・押し付け型のタイトルについては、筆者は納得していないが、そのタイトルとはうらはらに紹介されている絵本などへの批評は「障がい」の取り上げ方や捉え方について辛口なものも少なくない。資料的な価値を差し置いても、児童向けの書籍で「障がい」がどのように扱われるべきかを考えさせる一冊である。

絵本が「楽しさ・面白さ」と「教訓・教育」の両面を併せ持つことはよく言われることである。児童文学者の松居直(福音館書店「こどものとも」の初代編集長、後に同社長)は「絵本とは何か」(日本エディタースクール出版部)という著書の中で、「大人が「教訓・教育」の要素を重視することは子どもから絵本の楽しみを奪うことである」ことを強調している。松居は、「字の読めない子どもは、絵を読む」ことや「絵と短い言葉だからこそ想像力を豊かにし、感受性を育む」ことなどを述べている。

筆者は、「大人は絵本を理解しようとするが、子どもたちは絵本を感じている」と考えている。そう考えなければ、どう見ても上手とは思えないような絵や意味のない言葉など大人には理解できない内容の絵本が子どもに人気がある理由が見つけられないのである。だとすると、「障がい」を主題とした絵本によって、子どもは何を「感じる」のであろうか?

子どもは子どもであるが故に「できないこと」や「不自由なこと」を抱えている。大人の勝手な思い込みかもしれないが、子どもはその不自由さ故に「障がい」について素直に「感じ」とっている可能性がある。「外で遊ぶことや木登り」「電車(新幹線)や飛行機に乗る」などは、そもそも子どもにとって大冒険である。「新しいお友達」には興味津々で、「留守番」などは不安感と同時にワクワクするものでもある。これらは、いくつかの絵本のモチーフになっている。

「障がい」のある人が登場する絵本としては、木登りは「ペカンの木のぼったよ」(青木道代:福音館書店)で、新幹線は「おとうさんといっしょに~おばあちゃんのうちへ」(白石清春:福音館書店;現在在庫なし、再版未定)で、新しい友達は「ちいさなロッテ」(ディック・ブルーナ:講談社)で、留守番は「The Storm」(Mark Harchman:Dutton Juvenile)で障がいをもつ主人公によって達成される。これらは、「障がい」がなくとも成立するストーリーであるが、障がいのある人が登場することにより「課題の困難さ」などが増幅され、物語に深みを与えている。同時に、障がいのある人の「生活」や「環境因子」を自然に「感じる」ことができると考える。

さて、筆者が絵本の収集を始めた2000年ごろは、ちょうど総合学習授業が創設された時期にあたり、「障がい」「バリアフリー」などを学習・理解するためのさまざまな総合学習用のシリーズ絵本が発行された。残念ながらその多くは、学習や理解を求める教科書的なものであったが、イギリスの「Think abut …Series」の邦訳である「障害を理解しよう」シリーズ(小峰書店:「目の不自由な人たち」「耳の不自由な人たち」「車いすの人たち」「学習の障害がある人たち」の全4巻)は、それぞれの障がいのある著者によって、「障がい」について、歴史、家庭や学校での生活、外出や余暇など「当たり前の生活」を描きながら、ICFで言う「環境因子」を紹介している。ここに見られるように、大変さを教えることよりも何が大変なのかを感じ取ってもらうことが大切なのではないだろうか。さらに言えば、不自由さはあっても当たり前に生活していくことの「すごさ」を感じ取ってもらえることが、これからの「障がい」を扱う絵本に必要なのではないかと考えている。その意味で、最近出版されたフランツ=ヨーゼフ・ファィニクの「わたしの足は車いす」「見えなくてもだいじょうぶ?」「わたしたち手で話します」の3冊(あかね書房)と「どんなかんじかなあ」(中山千夏:自由國民社)を紹介して拙文を終わりとする。

(かつらりつや クラーク病院)