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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年4月号

1000字提言

社会参加の諸相2―「障害疑似体験」と「障害者の理解」

旭洋一郎

社会参加には社会の側の障害理解がむしろ重要である。ここで考えたいことは理解教育のツール、障害疑似体験の問題である。

今、小学校から大学、地域のボランティア教室等において「障害疑似体験」の時間がある。意味づけは多様だが、障害者の理解につなげようという学習課程に設定されている。そこに参加する学生はアイマスクを付けたり、車いすに乗ったり、身体に重りをつけたりし、学校内や駅周辺をまわる。彼らは笑顔で嬉嬉として取り組む。私もそんな機会に立ち会うこともあるが、このイベントをあまり好意的にみていない。「そんなことで当事者の障害がわかるか」という気持ちである。それでも高校までならば、「街はバリアフルで危険もたくさんある」という気づきに貢献するであろうからそれはそれで良い。だが、専門学校や大学でその程度に終わってしまったらクレームを言いたくなる。

問題の第一は、障害をもつ大変さは多くの要因によって変化し、環境との関係によって内容は変わるのであるが、障害疑似体験はよほど説明がない限り、身体の不自由さに矮小化してしまう。国際生活機能分類の枠組みが活かされていない。第二は、障害をもつ大変さの本体はそこにはないのである。むろん、駅にエレベーターが設置されていないなら大きな問題だが解決策はある。しかし、しんどさの本体は、たとえば安全を理由に学校に入学できなかったり、職場が限られていたり、さまざまな人間関係の障壁、介助関係の難しさや虐待や差別される辛さなのである。こういったことが障害疑似体験から想像できるであろうか。第三に自分たちとの「違い」が強調される仕組みになっており…きりがなくなるのでやめよう。いずれにしても気づきと新鮮な感覚だけでは困るのである。

これまでにも障害疑似体験にはイギリスの障害学から批判があり、新たな方法の提案もあるが、日本ではまだ少ない。

では、障害疑似体験は全く無用か。答えは否である。使い方によっては有効な学習の道具になり伝えられることはある。たとえば車いすに乗るとすれば、半日や1日は車いすで過ごす必要があり、被トイレ介助の体験も必須であろうし、介助者を付けずに街中を歩くこと、買い物や作業を行う体験が必要であろう。また安全を考えたうえで、季節や場所を変え、炎天下の照り返しの道や雪降る道を移動する意義はある。そのうえで、障害の多様性と複雑さに比べ、ツールの限界と体験としての限界を正確に伝えることが重要である。そのコーディネーターには障害当事者の役割が不可欠であるが、結局、さまざまな日常的な生活の中で形成される「経験値」を高める仕組みと努力がむしろ有効なのかもしれない。

(あさひよういちろう 長野大学社会福祉学部教授)