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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年8月号

文学にみる障害者像

キャサリン・ダン著
「見世物芸人の愛情(Geek Love)」

ケニー・フリース※1
翻訳:長田こずえ

1989年に米国の女流作家キャサリン・ダン(Katherine Dunn)が書いた作品、「見世物芸人の愛情(Geek Love)」※2は注目に値する。ダンは、我々の肉体的な差異(インペアメント)を標準的で、ノーマルなものとすることにおいて、いわゆる、裏返し(Inside Out)の効果を挙げることに成功したと僕は思っている。

『Geek Love』は、サーカス小屋の創立者を両親(父親アルと母親リル・ビネウスキー)とする娘、オリンピア・ビネウスキーの語りを通して表現される文学作品である。両親は家族で経営する、つぶれかけの、どさ回りのサーカス小屋のオーナーであった。経営は不振である。何とかサーカスの興行と経営を成功させるために、生まれたときから、サーカスで見世物としての価値のある子どもをつくることを決心する。母親のリルは、妊娠中に障害者の子どもを生むために、麻薬を飲んだり、ラジウム治療をしたりしてありとあらゆる手を尽くす。こうした努力が実り、ビネウスキー一家は、サーカスで興行することができ、見世物としての価値のある子どもたちを生むことに成功した。

長男アーティは、いわゆる「魚人」として生まれ、手足がなく、魚のようなヒレを持って生まれた。音楽姉妹、エレクトラとイピジェニアは腰のところでくっ付いているシャム双生児として生まれた。次男のチックは、自分の頭の中で念じたことを実現させる隠れた能力を持って生まれ、作品の語りを担当する娘、オリンピアは、せむしで小人の白子として生まれた。

主人公のオリンピアとビネウスキー一家の視点から見ると、差異があるのはサーカスの外の世界である。つまり、この一家の障害をノーマルなものとすることによって、作者ダンは、「差異とは何か」を見るだけではなく、この架空のおとぎ話を通して、典型的な米国の家族のドラマをも表現することに成功している。

ダンは、他の米国の作家、カーソン・マックケラーのような「障害者のキャラクターを、他者として、虐げられた人の象徴」とする表現法を避けている。彼女は、他と異なっていることを話の中心において、その周辺に、兄弟姉妹のライバル争いや、両親が子どもをつくることに関する動機づけや計算など、ごく一般的な家庭の策謀や策略を読者に自然に提供している。読者は、この作品を通して、このような家族間の典型的なドラマや陰謀を新たなものとしてみること、同時に、通常は単なる障害の問題として軽く見逃してしまうことに真っ向から立ち向かうことを強いられる。

ダンは、米国的な資本主義と個人主義が支配する世界観の中で、障害と差異を本質的で実態のあるものに昇華することに成功している。ローズマリー・ジェラルド・トンプソンに代表される障害学の学者の説によると、サーカスとか、見世物小屋とかいったものは、19世紀における米国の産業開発と経済的繁栄に関係があるということである。そのような19世紀の繁栄の中で、多様性に富む移民国家である米国の複合的な社会を、特異な奇形の見世物たちの差異の視点から、逆に一つの米国社会としてまとめることに貢献したという考えである。

つまり、このサーカスというショーは、「それぞれ異なった文化的背景を持ち、自分は他と異なるものである」という米国の一般観客の個人個人の感情にうまく対処するために、見世物小屋の主人公たち(障害者)を「この人たちこそ、正真正銘の自分たちと異なった、他者(外部の人)」へと変換させることにより、自分たちの存在を統合性のある、ノーマル(普通)なものへと、同時に昇格させたのである。

僕が米国の大学で、この物語を教えていたとき、学生たちの間では、「自分たち一家の生活の糧であるサーカスの儲けと繁栄のために、わざわざ障害者の子どもたちをつくろうとした両親、アルとリルのモラルを問いただす」という質問が頻繁になされた。僕はいつもこのように返答する。「両親のどんなモラルを問いただしているのか?生活の糧と一家の繁栄のために子どもをつくることは、他の両親もやっていることではないか。たとえば、米国の大金持ちのケネディー家とか、ロックフェラー家なども同じではないか。金持ちの両親も、家庭の繁栄のために子どもに期待をかけて、子どもをつくらないと言えるだろうか」。学生たちは、ダンが、この作品の中で、どのようなメッセージを伝えようとしているのかを理解してくれたと思う。

さて、ビネウスキー一家の話が進むにつれて、次第に、魚人間の長男アーティが一家の生活の糧であるサーカスを支配するようになる。アーティの行動は徐々に異常になってきて(我々の視点からの異常性)、コントロールが効かなくなってくる。サーカスで水槽の端につかまって観客の感情に訴えかけるかわいらしいせりふを吐いているだけでは飽き足らなくなり、神官、預言者として誇大妄想な役割を果たすようになる。彼は、自分の手足の無い肉体がどんなに優れているか、そして手足が無いことにより世の中の困難からいかに自分自身を自由にできるかを説教して回る。

彼に言いくるめられ、改心した弟子たちは、アーティに捧げ者としてすべてのものを投げ出し、自分の爪、指、足の指、そして最終的には自分の手足を捨てる。これらの外科手術は1番下の弟のチックが、彼が生まれながらにして持っている秘められた才能と精神的な麻酔を利用して行うことになる。

ダンは、アーティとその信者を通して、完全な肉体のばからしさを裏返しに表現してみせる。アーティと彼の信者は、自分の正常な肉体を正そうとして(異常なものにしようとして)必死になる。彼らは、アーティのようになろうとするのである。読者にとってこれは馬鹿らしいことかもしれない、しかしよく考えれば、この発想と肉体的な差異を治すという考え方の間には類似点がある。我々人間は、完全な肉体を持たねばならないという発想、そのもののばからしさである。

発想の転換として、アーティは自分の肉体を完全な肉体の基準として押し付け始める。そして、彼の信者の間に、肉体に基づく上下関係を構築し始める。つまり、2、3の爪や、指しか失っていない「不完全な肉体」を持つ信者が下位に位置づけられ、できるだけアーティの完璧な肉体に近い、肢体が取り外された魚人間型のほうがより上のものとしてもてはやされる。

ついに彼は一家の運命をコントロールするようになり、兄弟姉妹たちの人生に悲惨な結果をもたらすことになる。彼は、シャム双生児の姉妹に、彼女らが愛していない男と結婚させ、無理やり子どもを生ませようとする。双生児の一方のエレクトラが激しく抵抗したため、彼は彼女を双生児の体から切り離させ、もう一人の双子の姉妹、イピジェニアに単独で子どもを生ませる。この手術は失敗して、エレクトラは意識不明に陥ってしまう。

ここでは、作者は、歴史的に見て多くの障害者たちが自分の意思とは関係なく、他人の手により強制的に医学治療をされたり、精神的な治療をされたりした事実を皮肉っている。他人が我々障害者の精神的、肉体的な人生にもたらす権力を見事に表現している。同時に、双子が妊娠中に、主人公のオリンピアはチックに頼み、兄アーティの精子を取り出してもらい、それを自分の中に注入し兄の子どもを孕む。

後に、アーティはこの事実を知り、さらに、生まれてきた自分の子どもミランダが小さい尻尾を持っていること以外は全く健常者であり、サーカスの見世物としての価値があまり無いことを知ると、役に立たないものとして、家柄を隠してミランダを捨て、孤児院に送り込む。ここでもダンは、多くの障害者が隔離施設に送り込まれ、収容生活を強いられた悲しい現状を裏返しの観点から皮肉っている。

ミランダが誕生してから、ビネウスキー一家とサーカスは没落への道を歩み始める。まず、エレクトラは意識を取り戻し、双子の姉妹の子どもを殺す。怒りに狂ったイピジェニアはエレクトラを殺害し、自殺する。チックは自分が良いと思ってやったことが結果的に悲惨な結果を招いたことを嘆き、怒りに狂い、サーカス中至るところに火を放ち、サーカスを全滅させる。もちろん、アル、アーティ、そしてその信者たちは火事に巻き込まれ焼き殺されてしまう。

さて、ここで一応、幕が下り、その後、セットは現在(約20年後)に移される。ここからは、20年後のビネウスキー一家のお話となる。

サーカスは破壊され、オリンピアはラジオの司会者として働き始め、ようやく普通の落ち着いた生活を始める。そして、彼女は初めて自分の体が普通の人の体と異なっていることを認識する。他人が、彼女のことをじろじろみて、どうしてそんな体になってしまったのかと、考えているのに気がつく。純粋であどけない子どもたちだけが、堂々とこのことを聞いてくる。

彼女は自分の体をじろじろと見る、店の店員や掃除人などにいちいちその事情を説明して、なるべく理解してもらうように努力する。しかし、どんなに説明しても、彼女は完全には受け入れられない。社会的に隔離されている自分の人生に気がつく。そうだ、サーカスの外では、自分の障害をもった体がノーマルであった以前の生活と違い、今度は、通常の五体満足者がノーマルであり、自分はアブノーマルであるのだ。ここで、テーブルが完全にひっくり返される。つまり、古典的な、障害者の社会的な役割を強いられることになる。

オリンピアは最終的には、自分の娘ミランダを発見し、ミランダが金持ちのリック夫人にうまく言いくるめられて、金のために自分の尻尾を切る手術を考慮しているのに気づく。リック婦人の陰謀的な態度は、自分の兄である強引なアーティを思い出させ、彼女は夫人の殺害を計画するが、誤って自分の命を落としてしまう。

この悲劇は、娘ミランダが母オリンピアから送られてきた郵便物を開封するところで終わる。郵便物にはトランクが入っており、トランクの中にはミランダの出生の秘密と、この悲劇、「見世物芸人の愛情(Geek Love)」の原稿が包まれていた。

この作品は、米国社会の障害者に対する扱いと対比させ、一般とはかけ離れた世界、サーカスを描いている。サーカスが米国の普通の社会生活とかけ離れているだけではなく、この小説に登場する登場人物の性格、キャラクターそのものも現実離れしており、一般的な「差異」の比喩から我々の視点を解放してくれる。読者が障害者を想像するとき、一般的には盲人やろう者や知的障害者などを思い浮かべるのが通常で、シャム双生児の姉妹や、せむしで小人の白子などを思い浮かべることはない。

この一定の距離感が読者に対して、差異をもう一度見直し、差異を考えることに新たな意義を見出させる。我々が知らず知らずのうちに持っている偏見や比喩の視点から取り扱うこと、あるいは、障害と聞いただけでよく考えもせずに、飛びついてしまう短絡的な結論(それが同情的であろうと差別的であろうと)などから読者を開放することにより、この作品は、我々に、人間の差異と障害に関する答えを再度、模索するための旅へ我々を誘い出すための船としての役割を十分に果たしていると思う。

※1 作家、米国ゴッダード大学大学院教授。この論文を書くにあたり、協力、貢献してくれた僕の教え子の1人、Michael Fieni に感謝の念を表したい。

※2 原著は絶版。日本では『異形の愛』(編訳・柳下毅一郎、ペヨトル工房、1996)として出版されている。