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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年11月号

文学にみる障害者像

小島信夫著「吃音学院」
―〈矯正〉と〈強制〉のリハビリテーション―

荒井裕樹

小説「吃音学院」は『文学界』昭和28年8月号に発表された。小島信夫の初期作品で、現在手頃なものでは講談社文芸文庫『殉教・微笑』で読むことができる。文庫本で50頁強程度の中編小説である。

同文庫本あとがきによれば、昭和7年、小島信夫は中学校の卒業式に出席せず、大阪の吃音矯正学校の門をくぐった経験があるという。この小説も、その時の体験がもとになっているようだ。かつて小島は、自分の作風を「小不具者の小説」であることを自認していた。「小不具者」とは、大体「作中の主人公が歪んだ気質、考え方をしている」というような意味らしい。興味深い言葉だが、小島自身、後にこの言葉を回想して「いま思い出しても不思議な言葉」だと言っているように、特に具体的なイメージがあったというわけではないようだ。しかしこの言葉を使う元々のきっかけになったのが「吃音学院」であったというのは事実らしく、その意味でも、この小説は作者にとって思い入れの深い一作であったようだ。

物語は、主人公である18歳の少年「衣川一雄」が、東京某所「K吃音矯正学院」に入学する場面から始まる。彼が入学した吃音矯正学院には、バラエティー豊かで個性溢れる人物が多く登場する。元吃音症者である学院長「松波良十郎」(彼は近々、参議院選挙出馬を目論んでいる)。悪徳商法の外交員「諸留五兵衛」(彼は学院生に詐欺をはたらき途中で出奔してしまう)。頑なに一言もしゃべらないミステリアスな紅1点「柿本いね子」。学院の用務員でありながら、学院生たちを政治運動に利用しようと企む怪しい左翼運動家「大川太助」など。とにかく主要な登場人物たちはすべて吃音症者であり、彼らが織りなすコミカルなドラマが、この作品の最大の魅力となっている。

吃音症を描いた小説といえば、方言コンプレックスや学歴志向など、複雑な心理的葛藤ゆえに吃音を病む青年を描いた井上ひさしの自伝的小説『花石物語』(昭和55年)なども思いつく。同様に「吃音学院」の衣川一雄も、コンプレックスと吃音とが根深く絡み合う悪循環の中で、必死に――しかしどこか微笑ましく――格闘するのである。

衣川がとらわれているコンプレックスの一つに、異性に対する極度の羞恥心がある。入学初日、彼は松波院長との面接の際、カルテに「女性には初心」と書かれ、その洞察力に驚かされる。事実、衣川は細い道で女性と行き会うと、廻れ右して引き返してしまうほど「初心」である。「吃りが先きなのか、こういうことだから吃るのかは知らぬが、女の前で話そうものなら、一進一退の点では道路を歩いている場合とおんなじだ」という衣川の深層心理では、吃音と女性コンプレックスが複雑に絡み合っている。

そんな衣川の前に現れたのが柿本いね子である。彼女を一目見るなり「どうしてもあの娘さんを治してやらねばならぬ」と決意した衣川は、柿本にコンプレックスの解消を夢みるのである。その衣川の恋路に諸留五兵衛が横槍を入れる。「くちのおそい者は、手は早いのや」とさえ言い切る諸留は、衣川とは対照的に女性経験が豊かで、さまざまな謀略を図って柿本を手に入れようとする。間に挟まれた柿本は、吃音の「醜さ」を嫌って口を利かず、何を考えているのか判然としない。衣川・柿本・諸留という、吃音が絡んだ歪(いびつ)な――しかしやっぱりどこかコミカルな――三角関係が、この作品の核をなしている。

一言もしゃべらない柿本に、衣川は繰り返し「ぼ、ぼくは、あなたの声がききたいのです」「吃るのは醜くっていやなことです。それでも喋らぬよりはやはりいい」(この箇所は筆談)と伝えるのだが、その想いは諸留の妨害もあって成就しない。衣川は柿本への未練を断ち切るかのように、矯正へ熱を入れることになる。

彼が熱中する「K吃音矯正学院」推奨の矯正法を整理すると、心理面と技術面との二種類があるようだ。前者は会話の相手を「石ころ」だと思うこと。後者はお経のような発声法を用いて、聞き取れないほどゆっくりしゃべること。魚屋から巡査まで、学院生が口を揃えてこの矯正法を練習している光景は、ある種の滑稽さを醸し出している。しかし相手を「石ころ」にして、お経のような発声法で無理やり言葉を搾り出しても、それは他者へ意思や想いを伝えるという、本当の意味でのコミュニケーション能力の回復にはならない。この学院の狙いは、どうやら吃音の矯正だけにあるわけではないようだ。

矯正訓練のクライマックスは街頭での実地演習である。学院生たちは「おれたちは吃りだ」と連呼しながら街中を歩き回り、院長に指示された通り公衆電話から相手かまわず無賃電話をかけ、勝手なことを言いまくる。当然これは犯罪であるが、これくらい度胸がなければ吃音は矯正されないというのだ。

このあたりから次第に学院は本性を現し始める。そのうち電話をかける相手は会社や役所の重役級に限定され、会話内容も「待遇改善!」など政治色の濃いものに限定される。街頭演説では「恥をかきざんげを行うことによって解脱する」という訓練主旨のもと、公衆の面前で吃音を発症した経緯と克服した次第を述べることを強いられるのだが、学院生たちは演説原稿に「松波院長のおかげで」という文句を書き加えさせられる。つまり松波院長は学院生たちを参院選のための宣伝隊にしようとし、大川太助は街頭訓練をデモ活動の隠れ蓑にする。そんな怪しい矯正訓練であっても、柿本を失った衣川は自暴自棄的にのめり込むことになる。

吃音を治すために「おれたちは吃りだ」と連呼し、他者へ意思や想いが伝わりそうもない発声訓練を繰り返す。そんな頑張る吃音者たちの姿が、実はどこかで誰かの手柄になっている……。一読した限り、少し滑稽な訓練風景だが、私にはこれが、実は誤ったリハビリテーションというものの落とし穴を象徴しているように思われてならない。

障害を〈矯正〉して健常者に近づこうとする行為は、間違った者に導かれると、皮肉にも自分の障害を改めて意識させられる営みにもなるようだ。障害の〈矯正〉は、自分は障害者であるというアイデンティティの〈強制〉と表裏一体なのである。さらに付け加えれば、その〈矯正/強制〉は、障害者と健常者の〈共生〉を目指すために行われる。

そもそも、ここで描かれた吃音症は、自分の一部分ではあっても自分の全てではないはずだ。しかし衣川は「おれたちは吃りだ」と叫ばされ、善良な魚屋の学院生も無賃電話をかけさせられる。つまりそれぞれの個性や社会的役割が棄却され、全人格が「吃り」として規定されてしまう。この学院の訓練は、まさに〈矯正〉と〈強制〉が裏腹な、歪んだリハビリテーションなのである。

しかし、そんな怪しい矯正訓練の中から、本物のコミュニケーション力を獲得した人物がいる。それが柿本いね子である。作品の最終部、例によって怪しい演説訓練をする衣川に警察隊が制止に入り、押し問答が繰り広げられる。危機に陥った衣川のもとに、柿本が駆け寄る。

《僕は壇上から引きずりおろされた。/「きさまは何だ」/「おれたちは吃りだ」/「吃りが何だ、笑わせるな」/そこで僕はしょうこに提灯を指そうとしたが、とっくにあかりは消えていた。/「吃りが演説をしているのだ」/「お前は吃らんではないか」/「お前が石ころだからだ」/「石ころ? お前は何だ、その女は」/そう云われたのは柿本いね子で、彼女はとっさに僕の方を見た。僕は腹の底まで見すえるように彼女を睨んだ。/「わ、た、く、し、も、ど、も、り、で、す」/彼女は僕にすがりつくようにして、僕の眼から自分の眼をはなさず、はじめて歌うようであるが発声をした。》

吃音を嫌ってしゃべらなかった柿本が、最後に唯一発した言葉が、吃音者としての宣言であった。彼女の言葉はぎこちないかもしれないが、繰り返し自分に想いを伝え続けた衣川に応える心からの言葉でもある。

真のコミュニケーションとは、ただ他者に言葉を投げることではなく、他者との共感の糸口を探ることから始まるはずだ。衣川との共感に基づいた〈共生〉を望んだ柿本の中に、〈矯正/強制〉されない言葉とアイデンティティが芽生えているのである。

(あらいゆうき 東京大学博士課程)