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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年1月号

インクルーシブ教育の推進に向けて

荒川智

障害者権利条約・教育条項の提起するもの

第24条「教育」では、次のことが定められている。1.教育権の無差別平等の保障と諸能力・人格等の最大限の発達を志向するインクルーシブ教育の原則、2.一般教育制度から排除されず、その中での、そして発達を最大にする環境での個別化された支援を受けること、3.点字、代替スクリプト、手話などのコミュニケーション様式・手段の保障、4.障害のある教員の雇用、5.高等教育・職業訓練・成人教育等へのアクセス。障害者の全面的な発達に向け、固有のニーズやアイデンティティを尊重するインクルーシブ教育を進めることは、総論としては多くの人が支持するであろう。もちろん個別に見れば、具体的な教育内容・方法や人的・物的条件の確保など、検討課題も多いが、ここでは、おそらく最大の論点となるであろうインクルーシブな教育システムのあり方に焦点を当てて論じることとする。

インクルーシブ教育の基本的理念とは

インクルーシブ教育の理解は一様でない。障害者権利条約にある、一般教育制度から排除されず、その中で支援を受けるということは、特別学校を全否定することなのか。通常学級が常に発達を最大にする環境となりうるのか。これは統合教育の理念が唱えられた1970年代前後から常に議論されてきたことで、国連での合意も実は玉虫色の感を否めない。

では一昔前の統合教育と今日のインクルージョンは同じことを意味しているのか。インクルーシブ教育とは単に地域の通常学校に通うことなのか。そういう理解も、特に日本では少なくない。しかし欧米では、フル・インクルージョン論者も含め、両者を区別する理解が広まっている。

ユネスコの定義などを参考にすれば、統合教育とは障害児を対象に一般教育の中で特別な教育を施すことであるのに対し、インクルーシブ教育は学校から排除されうる子どもに焦点を当てつつ、多様なニーズを持つすべての子どもを対象にしている。前者はダンピングにつながったり、あるいは通常教育について行ける程度で対応を分類させたりしたが、結果的に障害児の通常教育への同化を強いることとなり、固有なニーズやアイデンティティを軽視・無視する傾向を生んだ。それに対し後者は、特定の個人・集団を排除せず学習活動への参加を平等に保障することをめざす、学校教育全体の改革のプロセスとされる。

排除のメカニズム

排除を無くすというのは、単なる就・修学の「場」の問題ではない。通常学級に在籍していても、いじめ・不登校など学習への参加が保障されず、排除されている子どもがたくさんいる。学習困難やダンピングされている障害児も基本的に同じである。そうした傾向は、学力向上や学校間競争の社会的圧力によってますます強まるかもしれない。イギリスなどでも、これまでの教育改革が、社会的底辺層やエスニック・マイノリティの子どもにより不利益をもたらし、特別なニーズを持つ子どもの排除を強めたという指摘がなされている。

日本ではどうであろう。この間の障害児学校・学級在籍率の急増は、一面では障害児教育への理解や期待の高まりを表しているが、同時に通常の教育に居場所を見出せず、排除される子どもが増えていることも示唆している。

今後、競争原理がますます強まれば、たとえば、習熟度別指導による序列化によって特別支援学級(教室)はその底辺に位置づけられないだろうか。その結果、学力テスト対策の一環として特別支援学級に移される子どもも現れないだろうか。特別支援学級の弾力的活用を進めるため、常に個別的な対応を必要とする子どもが特別支援学校に移されないだろうか。特別支援学校でも、成果主義が支配し、一般就労可能な(あるいは進学可能な)生徒が重んじられ、重度の子どもはないがしろにされないだろうか。これらは現実に懸念される排除の構図である。

では、障害児学校・学級を廃止すれば排除が無くなるのか。そう単純なものではない。むしろ、多くの子どもが行き場を失ってしまうかもしれない。排除のメカニズムは複雑で、同じ個別的対応・支援でも、諸々の教育条件によって教師や周りの子どもの意識・態度が左右され、参加の促進にも排除の助長にもなりうる。本人も支援の施策に喜んで参加もすれば、疎外感を味わうこともありうる。

排除を無くし、学習参加を保障していくには、障害児学校・学級の是非を論じる以前に、通常学級を改革し、多様なニーズや学力差、あるいは個性を包摂できるようにすることが不可欠である。

発達を最大にする環境

インクルーシブ教育を「場」の問題に矮小化させてはならない。しかし「場」の問題は些細なことではない。就学をめぐる不毛な対立を乗り越え、最低限の合意形成に至る道はないだろうか。

特別支援学校・学級も含めて現行の学校教育法体制を障害者権利条約でいう「一般教育制度」と解釈することも可能である。もちろんそれは、単なる現状肯定であってはならない。

しかし国連での議論をさかのぼれば、障害者権利条約の「一般教育制度」は通常教育を指すと考えるのが自然であり、そこでニーズが応えられない場合の対応について議論が積み重ねられてきた。そのことを踏まえて、私見を述べたい。

地域の通常学校は、すべての子どもに門戸を開放し、少なくとも希望すれば通常学級に籍を用意し、発達を最大限可能にする環境となる努力をすべきである。

しかし、排除しないということは、通常学級での学習しか認めないということではない。ろうあ者のアイデンティティ形成の場である聾学校や、自閉症児のための落ち着いた環境、重度・重複障害児のための独自の施設・設備等をすべて否定しまっては、逆に「人間の多様性の尊重」と反することとなり、合意形成は困難になってしまうだろう。

したがって、通常学級に在籍しつつ、同時に個々のニーズに従って特別支援学校・学級にも在籍でき、さまざまな場での通級指導にもアクセスできる複数在籍(登録)を可能にすべきである。一見、学籍一元化論や特別支援教室構想に似てると思われるかもしれないが、教育条件を確保しつつ、子どもにとって真に居場所となれる場を、学校の中に、また地域社会の中に多様に用意されることが必要であろう。一人の教師が特定の子どもを抱え込むのではなく、特別支援学級や通級指導教室はインクルーシブな学校づくりの核に、特別支援学校はインクルーシブな地域づくりの核になり、共同学習や地域での協同の活動を展開しながら、学校や地域全体で子どもを見守る体制を積極的に築いていくべきである。

当面の政策の展望

インクルーシブ教育を進めるに当たり、喫緊の課題としては、まず通常の学校における少人数学級と複数指導やサポート・スタッフの体制の整備が挙げられる。どんなに指導力があっても、多様な40人の学級を1人で受け持つのは困難である。ただし、サポートスタッフは特定の子どもの対応というよりは学級全体の支援というスタンスが必要である。加えて、通級指導や特別支援学校における地域相談支援のための大幅な教員の加配が求められる。これらは、財政的困難を理由に回避はできない。

また、前述した複数在籍(登録)制度の確立に向けて、現在の居住地校交流や副籍・支援籍の有効性と課題の検証と、学級・教室概念の再考も含めた学級編制基準と教員配置原則の抜本的見直し、および障害の種類・程度に基づく就学指導の在り方に代わる、教育的ニーズに基づき本人・親の自己決定を基本とする就学・修学支援体制の構築も計られなければならない。

さらに中期的には、多様なニーズに応えるカリキュラムや学級・集団編成の在り方、インクルーシブ教育推進のための行財政システム等の検討も進めていく必要がある。

特定の子どもが排除されず、すべての子どもがその多様性やニーズ・アイデンティティを尊重され、豊かな人格発達に向けて学習活動への参加が保障される教育をめざしたい。

(あらかわさとし 茨城大学教育学部)