「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年1月号
文学にみる障害者像
芥川龍之介著『河童』―狂気の所在―
後藤聡子
『河童』は1927年2月に発表された短篇小説であり、芥川龍之介最晩年の代表作である。この時期の芥川は神経衰弱が進み、そのほかにも体中を病に侵された状態であった。さらには、同年1月に放火の嫌疑をかけられて自殺した義兄の借金と家族の生活とが、彼の肩にのしかかっていた。これらの重みに耐えきれずに頽(くずお)れていくかのように、7月27日(この芥川の命日は「河童忌」と称される)に服毒自殺を遂げている。友人に宛てた遺書の中で、自殺の理由を「唯ぼんやりとした不安」と記したことはあまりに有名だ。
晩年の芥川は、実母からの精神病の遺伝にひどく怯えていたという。実母フクは出産後間もなく発病し、幼い龍之介は芥川家に養子に入れられることとなった(このあたりの顛末(てんまつ)は、「僕の母は狂人だった」という衝撃的な告白から始まる『点鬼簿』に詳しい)。実母から愛された経験がないにもかかわらず、狂気という一点においては決定的に繋がれている――。芥川の闇は深かった。発表当時「明るい」「機知に富む」という評が大半であった『河童』に関して、芥川自身は「あらゆるものに対する、――就中僕自身に対するデグウ(嫌悪)から生まれました」と述べている。自己嫌悪が原動力となって生み出されたこの作品には、自らが実は得体の知れぬ狂気に絡めとられているのではないかという不安が立ち込めている。
「これは或精神病院の患者、――第23号が誰にでもしゃべる話である」。『河童』はこのように語り起こされる。この精神病患者の奇妙な体験談を、病院を訪れた「僕」が筆記するという形式で展開していく。彼が独白するのは、次のような物語である。
山登りの途中で河童に出会い、河童を追いかけるうちに河童の国にうっかり迷い込んでしまった彼は、「特別保護住民」として生活することになる。「我々人間の真面目に思うことを可笑しがる、同時に我々人間の可笑しがることを真面目に思う」河童の国には、さまざまな奇妙な習慣があった。たとえば恋愛においては、雌が雄を手段を選ばず執拗に追いかける。逃げきれずに雌の河童に抱きつかれ、大切な嘴(くちばし)が腐って落ちてしまう河童までいる。また、オートメーション化が進む工場においては、解雇された職工たちは合法的に殺されて食肉とされる。次第に河童の国にいることが憂鬱になった彼は人間社会に戻ってくるが、ある事業に失敗して再び河童の国に戻ろうとしたところを巡査に捕まり、病院に入れられてしまった。そして病院には今でも、河童たちが水道管を通って見舞いに来る……。
突拍子もない妄想である。しかしながら河童の国でのエピソードに、「あたかも~のような」という言葉を加えて比喩の形式に改めてみると、たちまち人間社会においても十分に起こりうることに見えてくる。たとえば芥川は、ある女性に執拗に迫られて憎悪さえ抱きながらも、彼女への欲望を断ち切れずに苦しんだらしい。その時彼は、彼女に捕えられてあたかも大切なものが腐って落ちてしまうかのような心持ちであったのかもしれない。また、あたかも経営者が労働者の肉を喰うかのような出来事は枚挙にいとまがない。この語りは、比喩性の脱落、比喩の事実化をもって「狂人」の妄想となってはいるものの、実は日常世界と地続きなのだ。それゆえにこそ、〈正気〉と〈狂気〉あるいは〈正常〉と〈異常〉との間に、明確な線を引くことが求められてくるのかもしれない。
河童の世界と人間の世界に決定的な差異があるとすれば、河童の世界には「ぼんやりとした」ところが一切ない点であろう。なぜ、という問いが入り込む余地がないという点が妄想の特徴であるが、すべてがあまりに明確に分かりきってしまう世界が、逆に狂気の様相を帯びてくるというのは奇妙なパラドックスでもある。
人間にとって最も「ぼんやりとした」ものは、自らの出生と死であろう。人間は、なぜどのようにして自らがこの世に生まれ出たのかを知らないし、自らの死がどのようなことであるのかも分からない。ところが河童の世界においては、胎児は父親から世の中がどのようなものであるかを聞かされ、その上で生まれることを望むか否かを自分で決めることになっている。もし生まれたくない旨を告げれば、ただちにその存在は消されてしまう。
河童の国の漁師バッグの子どもは、「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大変です。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから」と気兼ねしながら答えている(この胎児に芥川自身の願望を見てとることもできよう)。究極のインフォームド・コンセントである。
また、自殺した詩人トックは心霊となってホップ婦人に憑依(ひょうい)して死後の世界について語ると同時に、自らの死後の評判や残した家族の安否を確かめている。そして、河童の国で最も幸福そうに見える年寄った河童は、生まれ出た時には白髪で、歳を重ねるごとに若くなるのだという。それゆえ、「年寄りのように慾にも渇かず、若いもののように色にも溺れない」。つまり、自らを完璧にコントロールできるのだ。このように自らのすべて――出生と死までも――を、確かなものとして把握できる世界を夢想するところに、「ぼんやりとした」ものへの芥川のただならぬ不安や恐怖が表れているように思えてならない。
芥川は精神病に関する多くの文献を読み、斉藤茂吉らに早発性痴呆症(現在の統合失調症)についても聞いていた。恐ろしいものはよく見なければ防げない。しかしよく見るとますます恐ろしくなってくる。こんな眩暈(めまい)のような悪循環に嵌(はま)りこんでいったのかもしれない。そこで、自分が狂っているかもしれないという恐怖を明白な「狂人」(「第23号」は、時に奇妙な身振りで意味不明な怒声を発したりする)の語りという強固な枠に入れ、さらには河童という非現実的な生き物に託して対象化する。そのことによって〈正気〉と〈狂気〉との間に一線を引き、自らの正気を確かめようとしたのではないだろうか。
物語の終結部では、精神病院の一室で「第23号」が「僕」に対して次のように語る。
僕の病はS博士によれば早発性痴呆症と云うことです。しかしあの医者のチャックは(これは甚だあなたにも失礼に当たるのに違いありません)僕は早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆症患者はS博士を始め、あなたがた自身だと言っていました。
仮にこれを一つのオチと理解してみると、正気/狂気は瞬く間に反転する。病んでいるのは、果たしてどちらなのだろうという疑問が、ふと浮かび上がってくる。書き手の「僕」には、河童の国の音楽家クラバックが持ってきたという黒百合の花束も見えなければ、詩人トックの詩集も古い電話帳にしか見えない。それゆえ、やはり狂気に陥っているのは「第23号」の方なのだと考えざるを得ないが、このような確信を支えているのは精神病院という〈場〉の力だ。精神病院における精神病者が語る物語であるという設定をほどいてしまえば、『河童』は狂気とは何の関わりもない一つのファンタジー小説としても読めてくるのである。
人間の精神のありようを捉えて、何を〈正常〉とし何を〈異常〉とするかは、ひどく難しい問題となってくる。だれの中にも心の癖とでもいうべき傾きはあり、それが突出して自分にとって、時に周囲の人間にとっても受け入れがたい状態となった時に、それが病と名指しされるのである。つまり、〈異常〉は〈正常〉から一線を画するような特殊な事態ではなく、あくまでも程度の違いであり、〈多数者正常〉の原則に基づいて反転してしまうことも十分にあり得るのである。だからこそ芥川のように、「ぼんやりとした」グレーゾーンを彷徨(さまよ)いながら、自縄自縛状態に陥ってしまうこともあるのだろう。
自分は果たして正気なのか狂気なのか――。『河童』は、晩年の芥川のこのような限りない苦しみの中から生み出された作品なのである。
(ごとうさとこ 東京学芸大学博士課程)