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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年1月号

列島縦断ネットワーキング【青森】

街のなかで精神病から回復する・NPO活動

根本俊雄

オープンスペース・事務所のオープン

精神障害者のオープンスペース兼NPO事務所を開いたのはねぶた祭りが近づく1999年の初夏。たった10人の吹けば飛ぶようなグループでした。しかし運営のイメージだけははっきりしていたのです。「一斉作業はしない。プログラムはここに来る当事者と一緒につくる。情報や決定の透明性を大事に。人間としての自信を回復する場でありたい」。反面、はっきりしないものがありました。お金の工面はどうなるの、果たして賛同する人が増えるのか、公的助成に結びつくのか……。何といっても金と人と物が無かったのです。

青森駅から徒歩7分、中心商店街のなかの事務所は3年くらい借り手がなく、排気ガスと土埃で汚れていました。

荒関さんとSAN Net

「オラたちがここに来ていいんだろうか」。一緒に清掃し、部屋がきれいになったころ、若い荒関繁信さんがこう言いました。――自分たちのような障害者が街なかに来ていいのだろうか。「障害に引け目を感じているのだろう」とぼくは思いました。しかし彼はもっと深いこだわりを抱えていたのです。

中学生の荒関さんは「自分は世界で一番頭が悪い」と信じ、学校に反発することで自負を感じていたのでした。中学を卒業し、滋賀県の大きな絹糸工場に就職。敷地には高校課程を教える学校も併設されていました。慣れない暮らしに苦労していた梅雨の直前、彼は会社の壁にあった北海道の地図を見ました。「滋賀県だと言っていたけど、ここは北海道だったのか。だまされた」。突然の確信が彼を襲いました。統合失調症を発病したのです。工場から逃亡。幻聴にさいなまれつつ電車で東京にたどり着きました。たどり着いたところで警察に保護され、迎えに来たお父さんと青森に帰ってきました。3か月前に心もとなく後にした青森駅に再び戻ったとき、彼は何かを失っていました。青森駅に嫌な思い出が染みつきました。それから10年、駅の近くに足を運ぶことはほとんどありませんでした。それなのに中心商店街の中でSAN Netが始まる……。そこに違和感の源泉があったのです。

精神病はその人にとって、特異で、きわめて個人的な経験です。人は、社会的な結びつきを喪失し、確かな自分が感じられず、孤立したとき、発病します。だから病気をした人は救いを求めています。しかし、「毒だ」「死ね」と聞こえる幻聴、部屋を出入りする人影や信じがたいものが見える幻視の日々を、親しい人であっても理解するのはむずかしいことです。外側の孤立と内側の孤独がせめぎあい、深まり、目印になる何かに恐怖感を焼きつけます。彼の場合、それが青森駅でした。

「福祉対応型商店街」のマニュアル作り

SAN Netはいまだに公的助成がなく、お金の悩みは続いています。この8年、何十本の助成金申請書を作成したことでしょう。各種財団などからの助成金の合計は2千6百万円。うち18本は活動助成で、同じ数の事業をこなしてきました。イベント、パンフレット作成、IT活動……。貧乏暇なし、忙しい日々が続いてきました。でも利点も生まれたのです。各地の先駆的な活動との交流です。地元NPOとのつながりもでき、それにも増して「生活保護や年金の俺たちの方が根本さんたちの給料より多いんだよな」という「平等感」。共に苦労しているというつながりが、徐々に当事者活動を底上げしました。

青森市の中心商店街は7つの商店街が交差しています。背骨のような位置にある老舗街で、私たちのいる新町商店街があります。それが「福祉対応型商店街」という理念を掲げていることを知ったのは2001年でした(注1)。依頼され、私たちが商店街の高齢者・障害者のための接客マニュアルを作りました。高齢者が手ぶらで帰れるように「中心商店街お買い物宅配」が始まると、メンバーが集荷作業をするようになりました。街路のプランターの世話、割りばしリサイクルなど、商店街とのつながりは年々深まりました。

お買い物宅配活動が壁にぶつかったのは、ある助成金の終了でした。経費を削減しなければならない待ったなしの状況下で、軽トラックで集荷していたものを、軽リヤカーに変えることで駐車料金を削減しました。それまでのメンバーは就労経験のある男性が多く、作業着で軽トラックに乗って街を周遊して、一般就労の擬似感覚を楽しんでいました。しかし、歩道で軽リヤカーを押すのは、目立つし、正直「格好が悪い」。このため、メンバーは入れ替わり、あまり就労経験のない人や女性が増えたのです。

「傍楽(はたらく) 猫の手センター」で再スタート

このことを話し合っていた04年秋から翌年春、商店街活動の全体を、当事者が力を合わせて社会進出する「傍楽(はたらく)猫の手センター」と名づけて衣替えをしました。新たに、パソコン業務や軽作業なども引き受けるようになりました。

05年10月、黄色の目立つ軽リヤカーが初めて登場。最初に担当したのは荒関さんと奥さんの司津さんでした(注2)。これが地元新聞に載り(注3)、次に地元テレビの取材を受けたのが翌年の年始。女性キャスターの問いかけに荒関さんは「(街を歩く姿を)見られるのが好き」と明るく答えました。

つながりながら……

06年の夏、荒関夫婦とぼくは大阪まで当事者との交流に出かけ、そのついでに滋賀県の工場の跡地を17年ぶりに訪れました。琵琶湖のそばの工場は9ヘクタールのショッピングモールになっていました。ぼくはあまりの広さにびっくりしながらも、かつてあったいくつもの建物が立ち並ぶ大工場を想像しました。まっすぐに並んだ機械の前に15歳の荒関さんが立ち、絹糸の切れた箇所を探す。見落とすと、上司が後ろから「そこ!」と注意をする。注意のたびに心の力が失われる。病気をしてから、だれかに見られ、自分の周りをコントロールされている気分がしたと彼は語り、壁に目玉が現れたとも話してくれました。

しかし、人から見られるのが好きになった荒関さんは、実は見る自分を奪い返したのです。彼は生きる、ぼくも生きる、つながりながら……。

SAN Netはそのつながりの一つ。過去と現在を行き来し、未来に向けて力を合わせ、これからもお互いに街のなかで生きあいましょう(注4)。

(ねもととしお NPO法人SAN Net青森)

〈注)

1)河北新報社編集局編『風の肖像―「つながり」生きる人々』世織書房、pp.163―174、2003年。

2)河北新報社編集局編『ともに生きる精神障害者―地域へ、孤立を超えて』筒井書房、p.117、2005年。

3)http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2005/1216/nto1216_1.asp

4)井上滋樹著『〈ユニバーサル〉を創る!―ソーシャル・インクルージョンへ』岩波書店、pp.157―158、2006年。