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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年2月号

文学にみる障害者像

オリバー・サックス著『妻を帽子とまちがえた男』
なぜ妻を帽子とまちがえるのか、オリバー・サックスの症例P

種村純

サックスとその障害者観について

オリバー・サックス(1933~)は神経学者で、ニューヨークのアルバート・アインシュタイン医科大学の臨床教授、ニューヨーク大学医学部の非常勤講師などを務めている。

本書の『妻を帽子とまちがえた男』には表題作を含む全24編の神経疾患患者の記録が掲載されている。それらの症例の記録は大きく3部に分かれている。「喪失」の部では視覚、記憶、身体の認知、空間認知などの障害を示す症例が示した奇妙な現象、チックに伴う暴言、人の間違い、切断された足の幻影などを記載している。「過剰」の部ではてんかん発作などに伴う幻覚、夢など、「移行」の部では知恵遅れや自閉症の高度な計算能力、描画などの特異な能力を記載している。

サックスは自分が担当した患者について症状を詳細に記載するとともに、患者の生活上の体験を語り、患者の内面のドラマを描き出す。こうした患者の人間としてのありようをサックスは「精神と物質、メカニズムと生命が交差する場所」と呼んで、そこに近づくことを目標としている。

妻を帽子とまちがえる、とはどういうことか

本書の冒頭に載せられている「妻を帽子とまちがえた男」の主人公Pは、音楽学校の優れた教師であった。Pは相手の顔がわからないのだが、その相手が何かをしゃべればその声からだれであるか、すぐにわかる。視覚的な認知の障害であって、聴覚などほかの感覚については何らの障害もない。このよく知っている顔がわからない状態は特に相貌失認と呼ばれる。サックスはこの症状の記載にとどまらず、日常生活上の具体的な困難を示している。「町を歩いていて、消火栓やパーキングメーターを見ると、子どもたちの頭であるかのように、それをぽんとたたく。家具のノブの彫り物にむかって愛想よく話しかける」、などである。こうしたエピソードからすると、Pは顔以外の物体の認知も困難なようである。一方でPの音楽的才能は、依然としてすばらしかった、という。Pには視覚以外は何ら問題がなかった。

Pが物を見るときの様子が観察されている。「彼の眼は、私を注視していない。…顔を全体として把握することはしていないし、表情をくみとろうとする様子もなかった」。こうした障害では、眼を開けていても対象物を見ても手でとらえることができない。しかしながら机の上の1本の糸でも、たまたまそれに目がいったなら認知することができる。Pはちゃんと見えるか、と訊かれたときに「見える」と答えている。目に入ったものは見ることはできるのだが、対象を目でつかみ取る、といった注意力が働かない。

次のエピソードは靴が履けない、という問題である。視覚対象ばかりでなく、自分の身体についてもよくわからず、「あれが私の足かな」と発言した。また左側に置いてある物を見逃す。これは左半側の空間が無視される症状である。サックスは風景写真がたくさん載った雑誌をPに見せている。写真については個々の色や形の細部は見えているが、風景を全体として捉えることができない。Pにサハラ砂漠の写真を見せたときに、「川があって、そのほとりにあるゲストハウスで人々が食事している」と答えている。見えていない写真について、現在自分が見ている映像と過去に見て記憶している映像の区別ができず、このような言動となる。

そして妻の頭をつかまえて、持ち上げてかぶろうとする、という表題になったエピソードが出現する。この現象は次の二つの障害が重なって起こったのだろう。妻を見て帽子とまちがえるということは人と帽子という、大きく異なった対象の区別が困難であることを示している。形としてのまとまりが得られず、妻を人として見ることができていない。また、手を伸ばして物をつかむ、という行為が障害されていることも関係している。帽子を取ろうとして、手近な大きな対象である妻の頭をつかんでしまった可能性もある。空間認知の障害も絡んでいる。

自宅生活の様子

「妻を帽子とまちがえるような男が、どうして音楽学校の教師を務めることができるのか」と、サックスは疑問に思い、Pの自宅を訪問して面接した。「Pはサックスのいる部屋に入ってきたが、心ここにあらず、という感じで握手のために手をさしだしながら、壁の掛け時計の方に向かって歩きかけた」。空間知覚の重篤な障害で、サックスがどこにいるか見つけられず、サックスの方に向かって正確に手を伸ばすことができない。「私の声を聞くと向きを変えて、私のところへ来て握手した」。聴覚によって相手の位置を知ることができる。「楽譜が読めない」。視覚認知障害の結果として楽譜が読めないのであるが、そればかりでなく、楽譜に記載された記号の意味がわからないのである。ものの知覚が障害されればすべての視知覚が失われる、というわけではなく、視覚対象の種類によって見え方は変わる。「単なる形、抽象的な形はわかる。トランプの記号がわかる。似顔絵がわかる」。特徴を一つ見つければわかり、図式的な特徴を抽出することはできるが、まとまった形がわからないのである。

「テレビの女優がわからない。表情がわからない。男か女かわからない。家族や知人の写真がわからない。特徴的な髪やひげからアインシュタインはわかった。弟は顎や歯などが特徴的で、要素から知性的に解決した」。ここでサックスは、Pが人の顔をそれとして見ないで、一つの物体として見ていると分析している。このような認識の仕方を「生命のない抽象の世界」、とサックスは表現している。家の周辺の建物について、実際にその場に立つのではなく、風景を思い出してもらったとき、左側にある建物を答えなかった。記憶にある映像を心の中で見るときにも左側を無視する。言語的な記憶について、アンナカレーニナの内容について訊いた。Pは小説の中の出来事、筋を思い出せたが顔、情景、具体的なイメージなどの視覚的な記憶が抜け落ちていた。またPは病気によって自分の能力の何が失われたのか、気づかなかった。これらの障害は右半球の損傷後に出現するもので、左半球の言語機能と結びつかないことで意識されなくなってしまうのである。

以上のような多彩な視覚認知の障害を示すにもかかわらず、Pは歌を口ずさみながらケーキをむしゃむしゃ食べることができた。行為の記憶は良好で、運動感覚を利用してスムーズな行動ができる。ところが途中でリズムが乱されると、動作が停止してしまう。運動記憶が停止し、視覚に頼ることになり、動作はうまくいかなくなる。歌はメロディ、リズムを作って、動作の流れを喚起することに役立っている。Pは絵も描くのだが、描画機能は障害されてしまった。当初は細部まで具体的に描いていたが、病気の進行とともに具体性が欠けてきて、写実的でなくなっていった。最後には画面は無意味になり、線は混沌として、絵の具がぽたぽたついているだけだった。病気は次第に進んでいったが、最後まで音楽を教え続けることができた。Pのような病態は変性疾患といい、大脳の一部が侵され、病状は徐々に進行していく。そのために症状がきわめて多彩になっているのである。

サックスが言いたかったこと

この症例Pの記載を通じてサックスが強く主張していることは、具体的な認識よりも上位に抽象的な認識が位置する、という従来の考え方は誤っている、というのだ。この症例Pでは、生き生きとした具象の世界がわからなくなっているが、抽象的な記号や、分析的態度での認識は可能である。目の前の具体的な対象に直接働きかけることが困難になっている。知覚できた断片から知的に構成していく態度は保たれている。当初、サックスが企図したように、本書は病気に抗して発露される人間性を明確に描いている。サックスが意図した「メカニズムと生命の出会う場所の探求」という学問のあり方は、確かにその後の神経学の発展を方向付け、豊かな成果を挙げていることを付記しておきたい。

(たねむらじゅん 川崎医療福祉大学)

オリバー・サックス、高見幸郎、金沢泰子訳:妻を帽子とまちがえた男、晶文社、1992