「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年3月号
文学にみる障害者像
島木健作著『癩』
病みながら生きる者への畏敬
高橋正雄
はじめに
昭和9年に発表された島木健作の『癩』1)は、思想犯として牢獄に入れられた太田という島木健作本人を思わせる人物が主人公の物語である。この作品には、当時の牢獄に収容されていた結核患者やハンセン病患者の姿が描かれているため、医学史的にも興味深い作品であるが、本論では、パニック障害と思われる症状を呈する主人公の太田とハンセン病にかかってなお自らの生き方を貫く岡田という2人の人物に注目して検討を加えたい。
パニック障害の太田
太田は共産主義運動に加担した思想犯として牢獄に収容されたが、そこで喀血した太田は結核患者やハンセン病患者が収容される牢獄に移された。しかしそこは、「社会から隔離され忘れられている牢獄のなかにあって、更に隔離され全く忘れ去られている世界」だった。
太田は、この二重に隔離された牢獄の中で、病を抱えた囚人に対する役人のさげすみや、それにも増して激しい健康な囚人たちからのさげすみを受けることになるのだが、そんな苛酷な状況の中で、太田の身にある不思議な「発作」が起こるようになる。太田が襲われるようになった発作の様子を抜粋すると、概略次のようになる。
1)「何とはなしに不気味さを覚えて寝返りを打つ途端に、ああ、またあれが来る、という予感に襲われて太田はすっかり青ざめ、恐怖のために四肢がわなわなとふるえてくる」。
2)「どつどつと遠いところからつなみでも押しよせて来るような音が身体の奧にきこえ、それが段々近く大きくなり、やがて心臓が破れんばかりの乱調子で狂いはじめる」。
3)「身体じゅうの脈管がそれに応じて一時に鬨の声をあげはじめ、血が逆流して頭のなかをぐるぐるかけ巡るのがきこえてくる」。
4)「歯を食いしばってじっと堪えているうちに眼の前がぼーっと暗くなり、意識が次第に痺れて行く」。
5)「暫くしてほっと眼の覚めるような心持で我に帰った時には、激しい心臓の狂い方は余程治まっていたが、平静になって行くにつれて、今度はなんともいえない寂しさと漠然とした不安と、このまま気が狂うのではあるまいかという強迫観念におそわれ」、「一刻もじっとしては居れず大声に叫び出したいほどの気持」になる。
太田のこうした発作は1週間もしくは10日に一度起こり、いったん始まると約20分続いて常態に戻ったというのだから、これは当時で言う心臓神経症、今日ならパニック障害と診断されるであろう症状である。太田は、こうした症状を「強度の神経衰弱の一つの徴候」と見なして、体操をやったり静座法をやったりして克服しようとしたが、それでも発作から免れることはできなかったという。
なお、『癩』では、この発作の原因について、「病気と拘禁生活による心身の衰弱にのみ、こうした発作を来す神経の変調の原因を帰することは彼にはできなかった」とされ、太田の精神的な不安ゆえにこうした発作が出現したとして、次のように考えられている。
「若い共産主義者としての太田の心に、いつしか自分でも捕捉に苦しむ得体の知れない暗いかげがきざし、その不安が次第に大きなものとなり、確信に満ちていた心の動揺の生じ来ったことを自分自ら自覚しはじめ、そのために苦しみはじめた頃から、彼は上述の発作に悩むようになったのであった」
投獄と結核という苛酷な現実の前に崩折れそうになり、自分が今まで立脚していた知識や信念が、少しも自分の血肉と溶け合っていないことを自覚するようになった太田の不安を背景にこうした発作が起こったと、島木健作はパニック障害をあくまでも心因的に解釈しているのである。
ハンセン病の岡田
そんな心身とも惨めな牢獄生活を送っていた太田は、ある日新しい囚人が入ってきたことを知る。実はその男は、かつて太田が思想活動を共にしていた岡田という男だったのだが、岡田はハンセン病のため外貌が変わっていたためすぐには岡田と判断できなかったのである。
しかし、この岡田は、ハンセン病の病勢がかなり進んでいたにもかかわらず、この牢獄に来た最初の日から「極めて平然たる風」をしていた。この牢獄における岡田の態度を列挙すると、次のようになる。「静かではあるが、どこか人もなげにふるまっているような落着き払ったその男の態度」「誰と一言の話をするでもなく又報知機をおろして看守を呼ぶということもない」「すべて与えられたもので満足しているのであろうか、何かを新しく要求する、ということとてもないのだ」。
運動時間ごとに垣間見る岡田は、格別のいらだたしさを示すでもなく、その四肢は軽々と若々しい力に満ちていた。ある日、太田は看守の目を盗んで岡田に話しかけてみたが、岡田は絶えず微笑をもって受け答えし、しかもその調子には非常に明るいものがあった。岡田にあっては、すべてがハンセン病に犯される前のままなのだ。しかも、岡田は、かかる病苦にあっても公判において自らの姿勢を貫き通し、遂に転向していなかった。「岡田の今示している落着きは決して喪心した人間の態度などでない事は明らかであり、むしろ底知れぬ人間の運命を見抜いているかのような、不思議な落着きをさえ示している」。そんな岡田の姿を見た太田は、たとえこのまま病に倒れようとも、岡田は実に偉大な勝利者であると思い、岡田のことを「畏敬し、羨望した」という。
考察
このように見てくると、第一に『癩』は、谷崎潤一郎の『恐怖』(大正2年)や『青春物語』(昭和8年)2)とともに、パニック障害を描いた作品として先駆的な作品であることがわかる。島木健作は、おそらく自分自身が体験したであろうパニック障害を臨床的な正確さで作中に描き、この病気に対する彼なりの考えを述べている。島木健作は、やはり自分自身の体験からこの病気を作品に描いたチェーホフ同様、自らの生き方に伴う不安がこのような発作の形をとると心因的に解釈しているのである。
一方、ハンセン病の岡田は、自らの生き方に悩んで不安に駆られる太田とは対照的に泰然自若たる人物として描かれている。彼は、ハンセン病かつ思想犯という当時の時代背景の中では絶望的な状況に置かれながら、精神的な安定と明るさを失わない男として描かれている。岡田の描き方には、いささか理想化された部分があることも事実であるし、岡田自身必ずしもハンセン病に対する偏見を免れていない節もみられるが、しかし太田は、そんな岡田を自らの生き方と比べて畏敬し、羨望している。
そんな太田と岡田の関係には、中島敦が『李陵』(昭和18年)3)において描いた李陵と蘇武の関係に似たものがあって、李陵が「『やむを得ない』と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは『やむを得ぬのだ』という考え方を許そうとしない」蘇武に感じたように、太田は、さまざまな人生の困難に遭遇しながらも自らの信念を貫き、人間として尊厳ある生き方をしている岡田に対する畏敬と羨望の念を感じている。太田の岡田に対する感情こそは筆者がこれまで夏目漱石の『行人』や『こころ』などの作品に指摘してきた「病みながら生きる者への畏敬」4)、5)の念にほかならないのである。
『癩』は「病みながら生きる者への畏敬」を描いた作品としても先駆的な作品であり、世間的には悲惨・絶望の極みとみなされる状況においてなお、人間が畏敬の対象足りうることを描いた作品としても特記さるべき作品ということになる。
(たかはしまさお 筑波大学心身障害学系)
【参考文献】
1)『島木健作全集・第1巻』国書刊行会、1976
2)高橋正雄:「パニック障害の病跡」、『精神療法22』:594~602、1996
3)高橋正雄:中島敦の『李陵』日本医事新報3890:58~62、1998
4)高橋正雄:森鴎外の『高瀬舟』日本医事新報4219:57~61、2005
5)高橋正雄:「病みながら生きる者への畏敬」、『病跡誌70』:4~14、2005