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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年6月号

考察「ろう者を取り巻く手話社会」

小椋武夫

第2次「アジア太平洋障害者の十年」の中間年を迎えたが、振り返ると、ろう者に対する社会の理解は若干向上したものの、具体的な権利回復、権利擁護、差別撤廃につながる行動にまでは結びついていない。これからの後半には、具体策を持ってろう者の地位改善に取り組まなければならない。

完全参加と平等を保障するには、まず手話を言語として政府、社会、すべての人が認め、ろう者が自分たちの言語の手話による教育を受けることができる教育制度を設け、生活のあらゆる場面で手話の使用が保障されなければならない。裁判、職業、行政、教育などの場で手話が保障されるべきである。

しかし、今でもろうの子どもの教育へのアクセスは極めて厳しく、仮に学校に入ったとしても、口の動きを読み取り、無理な発語を強要される、いわゆる「口話」教育が多い。

ネパール、ベトナムなどではこの事態を見かね、ろう協会あるいはろう者の支援団体自らが学校を立ち上げ、手話による教育を行っているケースがある。これらは着実に成果を上げており、特にネパールでは、手話で学んだろうの学生が初等教育から中等教育レベルに進んでおり、現在では教室を増築して高校レベルの教育も提供しようとしている。ベトナムでも民営のろう学校で、高等教育課程を卒業する生徒を初めて送り出している。このうち1人は大学に進学するほど十分な教育を受けられている。しかし、このような手話によるろう教育は、本来は政府の責任によるものであり、公教育として行われるべきである。

ろう者の権利と生活を改善するには、ろう者が手話で教育を受け、社会のあらゆる場に進出できるようにならなければならない。このろう者の社会参加に必要不可欠なのが、手話通訳保障である。手話通訳の養成と派遣の制度は、公的な制度として政府が責任を持って行うことで、ろう者が安心して暮らせるものである。残念なことに、「びわこミレニアム・フレームワーク」(BMF)では手話通訳の養成・派遣の公的保障について触れていない。さらに残念なことに、このたび採択された障害者の権利条約にも手話通訳に関する具体的な条項が無く、5年経過した今でもESCAP地域の手話通訳に関する現実は極めて厳しい。

世界ろう連盟(WDF)アジア太平洋(AP)地域事務局は、毎年1回、各国持ち回りで代表者会議を開催している。2006年12月にはマカオでAP地域代表者会議を開催したが、この会議での大きなテーマの一つが「手話通訳」であった。この会議に先立って、AP地域事務局はカンボジアのろう開発計画アドバイザーのリーザ・クルーズ氏へAP地域の手話通訳事情に関する調査を依頼した。クルーズ氏はAP地域事務局加盟国の20か国にアンケートを送り、11か国から回答を得た。

「あなたの国で、現在活動している手話通訳者の数は何人ですか?」という問いに返ってきた回答は、この地域のろう者の情報保障の実態を映し出していた。

〈回答結果〉

カンボジア4人、ネパール40人、フィジー15人、フィリピン964人、香港2人、シンガポール39人、インドネシア0人、スリランカ2人、日本18,161人、タイ50人(すべて全国人数)

2004年にインドネシアでAP地域事務局代表者会議を開催したが、当時、手話通訳ができる健聴者は全国で一人だけだった。その女性は通訳者としての訓練を受けたわけではなく、歌手という立派な本業があった。しかし、開会式、閉会式などにおける政府からの来賓との間の通訳は、この女性に頼るしかなかった。

前記回答結果からも分かるとおり、インドネシアには正式な手話通訳者が1人もいない。会議の数日前、この女性は、不幸にも自分の飼い犬2匹に噛まれ、耳、腕、足などに何針も縫う大けがをした。しかし、足を引きずって開会式に来て、痛々しい姿で通訳をしてくれた。

これはインドネシアだけの問題ではない。毎年開催されるAP地域事務局代表者会議の主催国が、開催に向けて準備を進めるうえで最初にぶつかる問題は手話通訳者の確保である。この地域におけるろう者にとって早急な取り組みが必要とされるのは、手話通訳者の確保なのである。手話通訳者の養成と派遣について、びわこプラスファイブに書き込み、これから5年間で集中的に取り組んでいかなければならない。

先に述べたクルーズ氏の調査では、さらに「あなたの国には、手話通訳をつけることに関する何らかの法律がありますか?」という設問があったが、「ある」と答えたのは日本とフィリピンの2か国だけであった。

「あなたの国には手話通訳の養成制度がありますか?」という問いには、多くの国が「ある」と答えているが、その内容は、高度なレベルの養成プログラムから、非常に基本的なプログラムまで、さまざまであった。さらに「職業として手話通訳を行うのにふさわしい手話通訳者を認定するための制度がありますか?」という問いには、「ない」という国が多く、大半の国で手話通訳者の養成プログラムが実施されながら、その多くの国が「資格を有する」手話通訳者になるための試験制度を有していないことが分かった。

それでは、残り5年間に、ろう者の権利と生活を飛躍的に改善するにはどのような環境を整えればよいのだろうか。

そもそも、第2次「アジア太平洋障害者の十年」の行動ガイドラインがBMFであるが、このBMFを2002年に向けて作成していた頃は、まだろう者の完全参加と平等を実現するために、どのような目標を設け、どのような戦略をたてればよいのか、ろう者自身も十分に整理できていなかった。

その頃はちょうどICT(情報通信技術)が進み、とりわけ盲の方たちにとって、飛躍的に便利なハードやソフトが開発され、「情報保障」といえばICTという雰囲気が盛り上がっていた。BMFを作成する際も、ICTの面からの「情報保障」に目が向けられ、ろう者の基本的なコミュニケーション保障(聞く権利、知る権利)は忘れられがちだった。

第2次「アジア太平洋障害者の十年」とBMFの実施が始まって間もないころ、障害者の権利条約の起草作業が国連で決まり、私たちのESCAP地域からも草案を提出することになった。討議を重ねて作成されたのが、「バンコク草案」である。BMFの草案を作る時の未熟さに対する反省を込めて、「バンコク草案」には、確実にろう者の権利擁護に重要なポイントを提案していった。「言語には音声言語と手話がある」という提議を盛り込んだ。また、手話による教育の必要性、手話に精通している教員の採用、手話通訳制度の確立の重要性なども入れた。その意味で、単なる草案ではあったが、ろう者にとって「バンコク草案」こそ、今までで1番理想に近い法律文案であったといえる。

その後、アドホック委員会議長からの草案が提案され、第8回アドホック委員会において討議・討論が行われたが、バンコクから発信した「手話は言語である」という提議は最後まで残った。残念なことに、手話通訳の養成と派遣に関する部分は削除されてしまったのである。第2次「アジア太平洋障害者の十年」の中間年に立つ今、私たちろう者は、このESCAP地域でも、国連の「障害者の権利条約」以下の権利保障で満足してはいけない。むしろ、国連の「障害者の権利条約」に謳われる権利は、最低限保障されなければならない権利であり、これからの残り5年間には、権利条約をはるかに上回る権利の保障を目指したいものである。

現在、検討されているのがBMFの補足文書としての「びわこプラスファイブ」である。これからの5年でろう者の権利を促進するのであれば、この補足文書には、少なくとも権利条約にあるろう者の権利に関することを書き込まなければならない。すなわち、第2条「定義」、第21条「表現及び意見の自由と、情報へのアクセス」である。

そしてさらに、「バンコク草案」にはあったが、今はBMFや権利条約にも書かれていない、手話通訳養成、派遣、設置、評価などの制度についても盛り込まなければならない。これは、バンコク草案どおりに1文で書くと「手話通訳者の養成を含み、その派遣と設置を公的責任で整備する」である。

この文を「びわこプラスファイブ」に盛り込むことによって、これから5年間、ろう者の地位改善に取り組むための具体的な課題が浮かび上がってくるだろう。このことによって、ろう者を取り巻く社会がより良くなっていくと期待するものである。

(おぐらたけお 世界ろう連盟アジア太平洋地域事務局長)