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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年6月号

1000字提言

感謝の気持ち

稲垣吉彦

私が視覚に障害を負い、見えていた頃の人生と決別して今年で12年が過ぎ去った。現在私は、ちょうど12年前の私と同様に、見えなくなりはじめてさまざまな不安を抱えている視覚障害当事者やそのご家族の方のカウンセリングをボランティアで行っている。

「稲垣さんは見えなくなってからも、旅行とか行くんですか? もし行くとしたら、見えなくて楽しいですか?」

いつもの通り、電話でカウンセリングをしていると、クライアントから予想外の質問が投げかけられた。特別旅行好きというわけでもないが、夏休みなどまとまった休みが取れるときには家族旅行に行ったり、地方へ出張し時間が空いたときなど、機会があればいわゆる観光地と呼ばれる場所を散策したりすることもある。

「見えないなりに、見えていたときとは違う楽しみ方もありますよ」

私はこの質問に、至極当然のように答えていた。

先日、仕事で長崎へ出張したとき、少し時間が空いたので、同行した社員とともにグラバー園を散策した。坂道をゆっくり歩きながら、丘に流れるさわやかな風を感じた。園内に点在する池には、丸々と太った金色の鯉が群れをなして泳いでいる。来園者が池にえさを投げ込むと、えさに向かって鯉の群れが激しく水面をはじく音が立つ。水面の黒と鯉の群れの金色のコントラストは、強度の弱視の私でもその美しさを視認することができる。観光の楽しさを十分に満喫できたひとときであった。

こんな楽しみ方をいつの間に覚えたんだろう……。12年前に見えている世界と別れを告げた当初は、私に質問を投げかけたクライアントと同じように、見えなくなったことで人生の楽しみの多くを失ったように感じていた。正直なところ、今でも私は元通りに見えるようになることを望み、見えなくなってしまった自分を悲しむときもある。それでも私なりに見えない人生の楽しみ方を、知らず知らずのうちに身に付けはじめている。このわずか12年という年月は、見えていた頃には感じることができなかった新鮮な楽しみを私に与えてくれていたのである。

「視覚障害」は、私から、多くのものを奪い去った。と同時に、見えていたら得ることができなかったであろう多くのものを私に与えた。見えないことを悲しむよりも、見えないなりの幸せを実感したい。私は今、この「視覚障害」という障害に、わずかばかりの感謝の気持ちを抱きはじめている。

(いながきよしひこ 有限会社アットイーズ取締役社長)