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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年6月号

文学にみる障害者像

フランツ・カフカ著『変身』

佐々木正子

ある朝グレゴールザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹のとてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。

こんな唐突な書き出しではじまるフランツ・カフカの『変身』という小説は、毒虫になった息子に対して、家族がだんだんと疎ましくなっていく様を、日常の暮らしを通して描いてゆき、そして衝撃の結末を迎えるという小説だ。

カフカの小説は『城』にしろ『審判』にしろ非常に難解なものが多いが、この『変身』は、難解さも、あいまいさもなく、実に分かりやすい小説だ。難解なところといえば冒頭の一行「ある朝グレゴールザムザが不安な夢から目覚めてみると…」の設定だろう。だが、作者はそこをなぜなのかと追求せず、虫になったグレゴールと家族との暮らしの描写を実に巧妙にくりひろげ、息もつかせずラストの結末まで、一気に読者を導いてしまうのだ。

しかし不思議なのは、会社勤めをしていた若い健全な肉体をもった青年が、ある朝起きてみたら、理由も無ければ原因も無く、突然自分が身の毛もよだつほど恐ろしい「毒虫」に変わっていたというこんな不条理な事が起こったのに主人公はそれほど驚いたり、嘆いたりしていない。これがもし作者がホラー小説を意図して書いたとしたら、その毒虫がどれほど不気味な姿かたちをしているかを克明に描き始めるであろうが、そんなことは一行も描かれていない。さらに興味深いのは、虫になった自分をこう描いているところである。

まず彼は下半身をベッドの外へ乗り出してみようと思った。彼はまだ自分の身体の下半分を見ていなかったから、どんな格好をしているのやら見当もつかなかったのだが、さて、それを動かしてみる段になると骨が折れた。じつに動作がのろくさかった。とうとう彼は腹をたてて、無分別にも力いっぱい前のほうへ身体を投げ出した。ところが方角の選び方がまずかったとみえて、ベッドの脚へしたたか打ちあたり、ひりひり焼け付くような痛みを感じた。この失敗で下半身がひじょうに敏感なことをおしえこまれたわけだ。

これはまさに障害をもっている我々が日常いつも体験している感覚ではないだろうか。

障害者として生まれ、不自由な生活をおくっている我々も、考えてみれば、日常の暮らしの中では、自分の身の上がなぜこうなったのかを考えたり、ことさら不幸であると思うことなどあまりないが、物を持ち上げたり、何かをやる動作の中で自分の意思の通りに動いてくれないわが身にくやしい思いをすることはしばしばであり、まさにカフカが書いた小説の主人公グレゴールの体験している状況の通りなのである。

その毒虫になった息子について家族もまた、なぜそうなったのかという原因を探ったり、医者に見せようという方向に進むのではなく、この息子とどう接していけばよいのかという日々の暮らしの苦悩を小説は描いていくのである。

それは別の視点に置き換えると、突然痴呆(現 認知)症になった老人や、重度の障害者を抱えた家族の姿を描いているようにも感じられて、身につまされる思いである。

読み進む中で、はっきりと見えてくるのは、虫になったグレゴールのことを家族が「もう彼は自分たちと同じ人間ではない」ということを認識していく姿だ。「障害者も健常者も同じ人間だ」というのが実は幻想で「障害者も人間ではあるけれど別の世界の人間だ」という健常者の本音を、カフカが変身を通して描いているように思われてならない。

フランツ・カフカは、1883年7月にプラハで宝石商を営むユダヤ人家庭の長子として生まれている。18歳でプラハ・ドイツ大学入学、法学博士号を取得した後、ベーメン王立労災保険局に勤務。勤務態度の真面目さと礼儀正しさには定評があったようだが、知人によると、彼の印象について、「いつもガラスの向こうにいるように感じた」と述べている。

実はカフカは幼い時から厳格で強靭な父親を恐れ、家族と交わることをせず、自分の殻に閉じこもりがちだった。その兄をいつも支えたのが末の妹オットラだった。オットラには兄フランツに無い決断力と実行力があった。兄が父に反対されている小説執筆に悩んでいると、自分の部屋を仕事場として使わせた。カフカの短編の多くはオットラのところで居候中に生まれている。

また、カフカは常に女性を求め続けた人でもあった。カフカは婚約という正式な形をとった女性はフェリーツェとユーリエの2人だが、それ以外にも3~4人と恋愛関係になっている。そしてジャーナリストのミレナとの激しい恋。その恋に破れ、1924年6月3日、結核の悪化によりウイーン近郊のサナトリウムで死去。そのカフカの晩年数か月を共に暮らし、最期を看取ったのが21歳のドーラという女性である。

41年の生涯の中で、カフカはいつもいつも女性に恋をした。だが、女性と正面から向き合うような現実が来ると、逃避してしまうのだ。まして家庭を持ち、日々の暮らしを営む“結婚”を恐怖していたのではないだろうか。だから好きになって婚約しても、自分から破棄してしまうのである。そしてまた恋をする。その恋に苦悩する中で小説を書き続けたのである。

彼の小説執筆は仕事から帰ってから深夜にかけて行われていたようだ。この『変身』はカフカ29歳の時の作品である。

カフカの亡くなった後、ドイツは、あのナチスがユダヤ人を大量虐殺していく道へと進んで行ったのだ。ドイツ人でもなければ、正当派ユダヤ人でもない自分。誇り高く強いドイツ人を求める社会の中にあって、価値を認められない自分という存在。「自分は普通の人達とは別の人間だ」という疎外感、作品の多くが「社会から疎外された状況の人間」を主人公として書かれていることを思うとカフカの心の不安が見えてくる。そんな自分に唯一手を差し伸べてくれる女性という存在。そこにひたすら安らぎを求めていくカフカ。まるで太宰治のようでもある。

しかし、そんなカフカの小説がなぜ多くの読者に支持され世界的にも評価されるのか。それは彼の作品が、気高さと優しさに満ちているからではないだろうか。それはカフカが、自分を疎外する社会と人々を恨むのではなく、むしろその人たちに愛されたい、その人たちを愛したい、そのカフカの思いがすべての作品に貫かれているからだ。

この『変身』のラストシーンにも家族を思う気持ちが痛いほど描かれているのだ。毒虫になった息子が死んだ朝、なんと家族は勤め先に休暇届けを出してそろって郊外に出かけるのである。だが、そのラストシーンをカフカはこう描いて小説を終えている。

やがて3人そろって家を出た。もうここ何ヶ月もいっしょにそろって外へ出たことなどなかったのだ。彼らは電車に乗って、郊外へ出かけた。ほかに相客のない車室には、暖かい陽射しがいっぱいに差し込んであふれている。3人はすわり心地よく座席へゆったり背をもたせかけて、将来への希望などをいろいろ語り合った。(中略)

3人でそんなことを話し合っている間にも、ザムザ氏とザムザ夫人とは、だんだん生き生きと快活になってくる娘の方を期せずして眺めやりながら、この娘にもかわいそうに一時は頬から血の気がすっかり失せるほど苦労をさせたが、どうやら最近はまた豊満な、美しい娘ざかりの姿へ立ち戻ってくれたものだ、という感慨がほとんど同時にめいめいの胸に湧き上がってきた。すると夫妻は言葉すくなになって、お互いのまなざしだけで暗黙の了解をとりかわしながら、ひとつ、これからは娘のためにりっぱな男を見つけ出してやらねばなるまい、と考え込んでいた。

さて、いよいよ電車が行楽の目的地へ着いたとき、娘はいちばん先に立ち上がって、その若い肉体をしなやかに伸ばしたものだ。その美しい姿が、新しい夢と、善い意図をしっかり保障してくれるように夫妻には思われた……。

(ささきまさこ 「しののめ」編集長)