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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年7月号

目に見えないサービス、相談支援事業の中で考えた本人支援と家族支援

赤平守

はじめに

現在、横浜(社会福祉法人 同愛会 相談員として)と東京都杉並区で相談支援事業を行っています。特に杉並の相談支援事業「すぎなみ障害者生活支援コーディネートセンター(通称すぎコ)」は、地元の養護学校に通う障害児をもつ父親たち(オヤジの会)が中心となって立ち上げた、純粋に民間の相談支援事業です。そこでコーディネーターとして迎えられ現在に至っている訳ですが、どうして父親たちは自らの手で相談支援事業をやろうと考えたのでしょうか。

障害者として、そして家族として生きる現実

人はそれぞれその成長の段階でさまざまな出会いと別れを繰り返していきます。入学、進学、受験、就職。あるいは友人との出会い、恋愛、そして結婚等々。一般的にみれば、年齢を積み重ね、その岐路に立つことによってさまざまに選択肢が広がり、時には人生を左右する決断を自ら下す(自己決定)ことにより、時には失敗を繰り返しながら、人は成長していくものだと思うのです。しかし、翻ってみて、障害者とその家族の人生の選択肢はどうでしょうか。成長とともに選択肢が広がっているといえるのでしょうか?

一口に「障害者」と言っても、その言葉だけでは一人ひとりの個性や考えを表現することはできないように、その人やその家族の悩みを理解したり、ましてその悩みを共有したりすることは簡単なことではありません。

中途障害を含め、障害者(児)になるということは、心の準備期間を与えず、突然に「まさか」という気持ちとともにやってくることがほとんどです。特にわが子に「障害」があるということを宣告された家族は、例外なく大きなショックに直面することになります。障害児の子育てを前提として考えている家族などは皆無に等しいわけですから、自分がどんな立場に立って、そして何をすべきなのかを理解、受容できるようになるまでには多くの時間が必要となります。いや、多くの家族にとっては人生の永遠のテーマとなっているのかもしれません。

「どうしたら」「どうしよう」という不安だらけの子育ての中で、多くの家族が直面する問題に、「医療」と「教育」の問題があります。医療での問題点、特に重度の障害児の場合、専門性の問題を理由に一般の病院での受診自体を断られるケースは少なくありません。「自分の子どもは病気になることもできないのか」という不安感が根付いてしまったご家族の話はよく聞きます。

さらに就学の時期、家族にとっては「障害児」=「健常児ではない」という一番聞きたくない言葉を否応なしに行政や学校側から聴かされることになります。運良く、家族や親戚や身近な友人に同様の悩みを抱えていたり、親身に相談に乗ってもらえる人たちが周囲にいる人の場合は、その人たちのアドバイスを聴いたり一緒に考えながら、解決策を探し出すことも可能ですが、実際には、こういった大きな壁にぶち当たるたびに、パワーレスな状態に追い込まれていく家族の方が多いのではないでしょうか。

さらにこういった状況に入り込んでしまうと、「相談しても結局、だれにも分かってはもらえない。分かってもらえないのなら自分で何とかするしかない」と、子育ての初期の段階で結論付けてしまう方々がかなりの割合で存在します。こうなってしまうと、家族の人生と障害のある子どもの人生が同一化してしまうという危険性を孕むことになります。それはどちらにとっても決して幸福なこととはいえません。

必要な相談とは?

日本の障害者福祉の世界に相談支援のシステムがない訳ではありません。地域行政に目をやれば、障害福祉課であったり福祉事務所であったり名称の違いはあれ、障害者福祉の相談窓口は歴然と存在しています。しかし、残念ながら多くの家族がこのような行政の相談窓口で問題解決よりも失望感を持ち帰り、その後、前述のような「だれにも分かってもらえない」という結論を出してしまうケースが非常に多いのです。

なぜなら、多くの行政相談窓口の担当職員はすべてではありませんが、障害に対しての専門性を持たぬままにやっていることが多いということ。そして、なぜ、専門性を持たずとも可能になるかといえば、相談者に対して行政が回答するということは、相談者に起こっている現象に対しての回答であり、制度やシステムを相談者がどのように利用できるかが必要なのであって、制度やシステムに入り込む余地のない「将来の不安感」のような漠然としたものは対象外ということになってしまいます。

本来、相談者は自分自身が抱えている悩みの主訴が何であるかを整理できずにいることがほとんどであり、漠然とした不安感の中で生きているといえます。支援者は、その相談者が抱えている漠然とした不安感の中から生まれてくる迷いや悩みを整理してあげなくてはなりません。

民間の力を使った柔軟な対応を

病院が患者に対して「あなたはこの町の住民ではないから、診療はあなたの住む町でしてください」と断ることはありません(残念ながら障害を理由とした診療拒否はありますが)。また交番で道を訊(き)くとき、「まずあなたがどこのだれかを教えてください」とはならないでしょう。しかし、福祉行政(行政全般とも言えますが)の世界では、その人がどこに暮らしているのかは、サービスを受けるために絶対に必要な情報となります。新宿区に暮らす障害者が、隣の渋谷区の相談窓口に行っても取り合ってはもらえません。これは、そこに発生するサービス利用やシステムの活用は相談員の人件費を含め、税金で賄われるものだからと言えます。繰り返しになりますが、その観点からすれば、一般住民の相談にしろ、障害者の相談にしろ、行政サイドとしては、住民サービスの一環であるということに変わりはないかもしれません。

しかし、前述の通り、障害者(ここでいう障害者とは、人間として当たり前に生きたいと願うことが社会的バリアや精神的バリア等によって阻まれる状態となっている人たちを指します)とその家族が抱える漠然とした不安や悩みは、たとえばホームヘルプサービスを月何時間利用できるとかといった、物質的(もちろん重要な要素ですが)な援助だけで解決されるものではありません。しかし、ほとんどの場合、行政との関わりは、ヘルパーの支給時間が決定した時点で一旦、途切れてしまいます。

新しいサービスを使ったり、新しい出会いがあるということは、可能性の拡がりと同時に新しい不安感も広がるということです。大事なのは見守りの姿勢です。直接の支援は必要なくとも、何か困ったことがあればいつでも安心して相談できる存在。当事者からすれば御守り的な存在かもしれません。

残念ながら、現在の行政のシステムには、この見守りという考え方は存在しません。自ら行政の窓口に足を運ぶことができない、電話ができないということであれば、ニーズとしては認められないのが現状です。

行政(公立)に望めないことならば、民間がその役割を担わなければなりません。いえ、本来、サービスの形は民間から発生したものであり、「痒いところに手が届く」「相手の心を汲み取る」ことは民間の土俵と言えるのではないでしょうか。特に今、東京という大都会を考えるとき、障害者への各種手当、さまざまな施設等、ハードな面では日本の平均値の遥か上にあると言えます。

しかし、東京都の場合、現在では一般財源化されてしまった「障害児(者)地域療育等支援事業」や「市町村障害者生活支援事業」が有効活用されることが少なく、民間の参入がほとんどなかった現実があります。「オヤジの会」が自らの手で民間の相談支援事業を立ち上げたのは、このような理由があったのだとも言えます。行政からの補助もなく運営は火の車状態ですが、確実にある、ニーズの存在がその存続を支えています。

ニーズは無限大、そして自立(自律)へ

現在、受けている相談の内容(横浜、杉並ともに)は実に、多種多様、幼児期の療育相談から、就労相談、行為障害、触法や刑事事件に至ったケース、さらに受刑者となった障害者の出所後の対応に至るまで、年齢、障害の種類、さらに障害当事者でなく、支援者サイドからの相談まで、まさに「よろず相談」のようになっています。

また、地区を限定していませんから、東京、神奈川の全域、それ以外の地域から(遠隔地の場合、電話相談、メール相談が主となりますが)の相談もあります。枠を取り外して、大丈夫なのか? と問われることもありますが、逆に言えば、民間であるからには枠を作ってはならないと、私は考えています。大事なことは、相談する側が主体となって、信頼できる相談機関を選択できるかどうかなのですから。

大昔ならばいざ知らず、ひとりの人生が一つの行政区域だけで完結することは現在では稀なことといえるでしょう。いわゆる行政圏域と福祉圏域とは合致しないものですし、まして生活圏域は人それぞれに違って当たり前です。たとえ障害があったとしても、本人と家族の人生は同一のものではなく、一人ひとりのものとして、存在しなくてはなりません。こんな事例がありました。

2年前、S区在住のAさん(父)から、発達障害(手帳無し)の息子がアルコール依存で生活が乱れて困っている。このままだと一家心中にもなりかねない、との訴えがありました。よくよく話を聴くと、息子さんは社会に適応できない孤立感にさいなまれていることが、ぼんやりと見えてきました。ご両親と相談のうえ出した結論は、隣のM区の授産施設で週に2回、ボランティアを始めることでした。初めは気の進まない息子さんでしたが、やっていくうちに「人に必要とされている」という実感が少し芽生えたようです。アルコールはなかなかやめられませんが、このボランティアだけは今も続けているようです。

自立と一口に言っても容易なことではないことは、障害の有無に関わらず確かなことです。しかし、障害を理由に人生の選択肢が狭められたり、可能性を否定されたりすることがあってはなりません。

おわりに

障害者とその家族への相談支援とは、その障害を理由に、奪われたりあるいは、諦めざるを得なかった権利を回復するめに、必要な手段として保障されるべきものだと考えています。それは自立生活のために必要な所得保障と同様に、個人の生活の自律のために保障されるべきものではないでしょうか。

そして相談事業者にとって必要な事は、できる限り柔軟な姿勢で相談者の声に耳を傾けること。そして何よりも、目の前にいる、その人(本人も家族も)の人生を尊重することだと思います。人を尊重し対等な立場に立つことによって、初めて相談者のパワーレスな状態を理解し、自立と自律に向かって一歩を踏み出していくことができるのだと思うのです。

(あかひらまもる すぎなみ障害者生活支援コーディネートセンター/社会福祉法人同愛会相談員)