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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年7月号

本人の暮らし、家族の暮らし

私の家族

西内千英子

私が生まれた昭和45年。まだ「障害者」という言葉自体もあまり社会に浸透していなかった時代、障害者に対する理解や認識どころか健常者の好奇の目にさらされたり、避けられたり暴言を吐かれ怒鳴られたり「障害者」という存在が完全に浮いたものになっていた社会でした。

私は母親が病弱だったため、6歳の時に療護施設へ入所。以後、15歳まで施設生活でした。入所当初は母に対する怒りや憎悪、何よりも「私は親に愛されてなかったんだ、棄てられたのだ」という絶望感で一杯でした。施設生活が続くにつれ、家族との関係も冷えきっていき、溝も深まって行きました。たまに家に戻ってきても、「あんたなんか早く施設に帰れ」という親や兄の冷たい視線と暴言で、私の居場所はありませんでした。

差別が差別を生むとはこのことで、家族の温かい支援もなかった私には、今のこの現実を受け入れ、乗り越えていくほかなく、いつしか私にとって本物の家族は「他人」になりました。

16歳から18歳までの3年間は養護学校の寄宿舎で過ごしました。養護学校で一番苦労したのは中途障害者との接し方でした。先天性障害者とは違い、物の見方や考え方が自分とは全く異なり、「あなたたちより自分たちの方が上だ」という高飛車な態度には驚き、劣等感だけが残りました。

18歳から29歳までは授産施設で過ごしました。障害者の自立とか雇用促進を大々的にアピールしていたが、入所すると実情は全く逆で施設を出て自立を願い、実行しようとする者を罵倒し、不安を煽る施設職員。自立への可能性の芽をことごとく摘まれ、自信を失くしたり、将来を悲観し自殺した仲間を私はたくさん見てきたし、私も過去に3度の自殺未遂を経験しました。その後12年目にして施設を退所後、5年間の在宅生活を送りました。

それから縁あって中途障害者で6つ年下の主人と知り合い、結婚を機に、滋賀へ移り住みました。慣れないことの連続で苦痛でしたが、主人と理想の家族を作ろうと誓い合い、努力しました。しかしお互いの価値観や障害に対するギャップに戸惑い、私自身も施設生活しか経験が無いだけに、どうすればいいのか分からなくなりました。

結婚して1年後には長男にも恵まれましたが、精神的にも肉体的にも追い込まれた私は、今年5月に息子を連れ故郷に帰ってきました。今現在は「自立生活センターイルカ」でILの真っ最中です。自立のノウハウを修得していなかった私にとって、今が日々勉強の毎日です。一日も早く精神的に自立をして、別居中の主人と2人でいつか本当の幸せを掴み、また家族3人で一緒に暮らせる日を願っています。

(にしうちちえこ 沖縄県在住)