音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年7月号

本人の暮らし、家族の暮らし

希望の生活とは―きょうだいの立場から

時任晶子

私の弟は知的障害を伴う重度の自閉症児であり、今年で地域の養護学校高等部2年になる。発語はなく、こちらが表情や行動の流れを読み取るか、絵カードがもっぱらのコミュニケーション手段だ。非常事態を除き自宅で暮らし、小学校までは私たち姉妹と同じ地域の小学校の特殊級に通っていた。

身辺自立はそこそこ(?)と家族は考えており、風呂洗いや食器拭きの練習なども行っていたが、先日、様子を見ながらの自立下校時に行方不明となり、大事には至らなかったが、改めて「自分の名前が言えない」弟の障害の重さに愕然とした。

そんな弟の将来生活希望像として「本人がやりがいを感じる仕事に就き、グループホームなどに居住し、時々家に帰ってくる」というプランで今は家族で一致しているのだが、私は「自分の生活のために弟を家から出していいのだろうか?自宅に住むにしても親が老い亡き後、私一人で弟を支えられるだろうか」とだれにも相談できず悩んだこともあった。

しかし弟が学校の友達や先生との部活や、スタッフやボランティアと過ごしてレスパイト・サービスから楽しそうに帰ってくる姿を見ると、必ずしも家族と暮らすことだけが「本人の希望する暮らし」とはいえないことを最近思うようになってきた。家族が弟の一挙一動に敏感なように、弟も家族に敏感だ。弟のことを負担に思えば当然機嫌は悪くなるし、そんなことが続けば、自ずと生活を共にすることに固執することが良いかどうかなどが見えてくる。

私たち姉妹の自立など家族の形は変わりつつある。生活時間やスタイルが違えば、お互い生活しやすいように生活の場を別にするのは当然のことであり、別にする手段として、弟であればグループホームや施設が出てくるのは当然なのだと思う。

弟の「希望する暮らし」を完璧には知りえることはできない。けれど家族で抱え込むのではなく資源等を使い選択の幅を広げていくことが、弟がより良い生活を送ることではないだろうか。そのために離れて暮らしてもお互い安心して暮らせるよう、時々「元気にしてる?ちょっと一緒に出かけようよ」と言えるような関係であり続けられるよう、生活全般を支えてくれる支援が今後得られればと思う。

(ときとうあきこ 全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会(きょうだいの会))