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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年8月号

教育における障害の定義の検討課題

荒川智

2006年の学校教育法改正によって、特別支援教育に関して「障害による学習上又は生活上の困難を克服」するという規定がなされたが、教育の領域で障害の定義を論じる場合、「特別な教育的ニーズ」(以下、SEN)の概念および「国際生活機能分類」(以下、ICF)との関係を検討する必要がある。

1 「障害」と「学習・生活上の困難」

特別支援教育は、それまでの障害の種類・程度に応じた「特殊教育」から、一人ひとりの教育的ニーズに応じた教育への転換を目指したはずであり、医学・病理モデルから脱却する可能性を期待させた。しかし実際の制度改正においては、障害種別の原則は基本的に変わらず、特別支援学校教員免許のように、かえって強化された部分もある。各障害ごとの専門性の確保や、当事者のアイデンティティの問題も絡んでいるが、障害種と教育的ニーズとの関係は十分に吟味されてきたとはいえない。

SENとは、障害だけでなく、言語・文化的背景や貧困などの社会的不利に起因し、特別な教育的施策を必要とする種々の学習困難を包括する用語である。ここでは障害(のある子)はSEN(をもつ子)の一部であるが、特別支援教育は先の規定に従えば、障害に起因してSENをもつ子どもに、対象を限定していることになる。

一方ICFによれば、「障害」は「機能障害(構造障害を含む)、活動制限、参加制約の全てを含む包括用語」であり、それに従うなら、学習・生活上の困難は、個人の活動場面や生活・人生場面での「難しさ」を意味する活動制限、参加制約に該当する。すなわちここでは、困難は障害の結果ではなく、障害の構成要素であり、関係が異なってくる。さらに別の機会に論じたいが、学習・生活上の困難やSENと障害との関係は改めて整理する必要があろう。

2 障害の一方向的把握と子どもの内面

特別支援教育の規定を「障害」ではなく「機能障害(インペアメント)による学習・生活上の困難」と読み替えれば、ICFの概念に近づくかもしれない。しかしその場合でも、機能障害から困難への一方向的関係として理解したり、個人の生育歴や環境などの背景因子との双方向的関係を捨象すると、「医学モデル」とかわらなくなってしまうことに注意したい。

近年の法令や通知、あるいは審議会報告による各障害の定義や概念を見ると、かつてのような機能障害中心の基準から、活動・生活上の制限を含めた柔軟なものになりつつあるが、依然として一方向的な障害把握も根強い。たとえば学習障害等については、「中枢神経系に何らかの機能不全」による読み、書き、計算などの困難や行動上の問題、感覚障害についても、視力・聴力損失による文字・図形や和声の認識の困難という捉え方がなされている。

これらは、簡潔な定義としてはそれなりに妥当であろう。しかし教育実践に即して考えるなら、子どもの抱える学習上・生活上の困難は、単に中枢神経系の原因や各種の機能障害から一義的に把握しきれるものではない。家庭や学校を取り巻く資源の整備状況や、教員・友だちなど周囲の人々の理解や態度といった環境的要因はもとより、本人が、自分の機能障害や活動と参加の制限をどのように受け止めているのか、悩みや葛藤、苦しみや悲しみ、あるいは願いや喜びがどのように現実の困難に作用しているのかという、いわば主体的な要素をも考慮する必要がある。さもないと、学習・生活上の困難は、機能障害の結果として形式的な、またその子の内面とは切り離された表面的な個別事項(~ができない、~の問題がある)としてのみ把握され、マニュアルに依拠した対症療法的な対応に流されてしまうことになりかねない。

3 子どもを丸ごと捉える視点を

ユネスコやOECDの文書では、障害カテゴリーから脱却し、「全人的子ども観」や「その子の全体を把握する」必要が強調されている。子どもを丸ごと捉えるというのは、障害児教育に限らず教育実践の基本である。SENもICFも本来はこうしたことを意図しているが、人間としての普遍的なニーズや環境との相互作用と切り離されてSENが論じられると、容易に医学・病理モデルに転化する。ICFも教育現場に直ちに活用するのは難しい。たとえば読み・書き・計算は「心身機能」の「1.精神機能」にも「活動と参加」の「学習と知識の応用」にも登場し、区別しづらい。また、各項目の「できる程度」の評価が、個別の困難事項の表面的理解に終始しないかという懸念もある。

障害児教育実践では、「~できない」という状態や問題行動にも、単に否定的側面ではない、発達要求の芽となる積極的側面を捉えてきた。個別・表面的な障害理解を乗り越える鍵は、やはり子どもの内面や主体的要素へのまなざしであろう。

そうした意味でも、教育学的ないし教育実践上の障害の定義・概念が改めて問われてくるかもしれない。

(あらかわさとし 茨城大学教育学部教授)