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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年8月号

文学にみる障害者像

デイビッド・ローン著 平田敬訳
『音の手がかり』を読んで

竹村實

奇抜な着想

アメリカの作家デイビッド・ローンの小説『音の手がかり』(平田敬訳 新潮文庫)を読んだ。500ページを超える長編だが時間の経つのを忘れた。

主人公のスパイク・ハーレックは元ハリウッド映画の優秀な音響技師だったが、15か月前に撮影中の事故で突然、両眼の視力を失ってしまう。34歳だった。そのために生きがいだった映画の仕事から離れざるを得なかった。だが、彼には鋭敏な聴覚が残された。そして、その鋭い聴覚がこの作品の主要なモチーフになるのである。

物語の舞台はシカゴ近郊。季節は真冬で、吹雪の夜には零下18度にもなるという厳しい環境の中で7歳の少女誘拐事件が起きる。犯人は2人組の男で、シカゴ美術館に見学に来た小学生の群れから銀行家の1人娘ジェイニー・グランビルを強引な手段で連れ去ったのだ。その日の夕方、グランビル家へ「ガキを預かっている。警察へ知らせたらガキの命はないぞ!」というお決まりの脅迫電話がかかる。誘拐されたジェイニーは、主人公スパイク・ハーレックの妹エリーの娘で、日頃「スパイクおじさん!」と呼んでハーレックに懐いていたかわいい姪だった。ハーレックは傷心の妹夫妻に代わって、もっぱら犯人たちとの交渉役を引き受けることになる。

犯人側から身代金として20万ドルの金額が提示される。逆探知を防ぐために、彼らからの電話はいずれも3分以内に切られる。ハーレックは警察が背後で動いていると勘付かれないよう、表向きはあくまでも商取引と割り切ったように犯人と折衝し、電話がかかってくる度に商品であるジェイニーを電話口に出すことを要求する。しかも、彼女の声が録音でないことを確認するために、さりげない質問を忘れない。ハーレックは20万ドルが用意できる前に、差し当たり手持ちの5千ドルを犯人の指定した方法で提供し、ジェイニーの無事を保証させようと腐心する。

一方、ハーレックは犯人の声の背後に聞こえる物音に注意を集中する。道路工事のコンクリートドリル音から、高架鉄道の音、風鈴の音、犬の鳴き声、子どもたちの遊ぶ声、ハイヒールの音、コーヒーをかき混ぜる音などあらゆる音を分析し、犯人らの居場所を探ろうとする。どんなにかすかな音でもハーレックはコンピューター機器を駆使して分析していくのだ。音響技師としての経験と力量が遺憾なく発揮されていく。犯人の声以外の物音からその居場所を絞り込んでいこうという着想は奇抜であり、作者の非凡さを感じさせる。

シカゴ警察からハーレックのアシスタント役に派遣されてきた女性警官のディブラ・セラフィコスは、全盲のハーレックの明敏な頭脳に敬服し、犯人との息詰まるような神経戦の中で、いつしか二人の間に愛が芽生えていくのである。

ハーレックの努力の結果、ついに犯人らの住居が突き止められる。満を持して二人の警官が突入したが、一足先に犯人らは移動した後だったのである。その後、物語は急展開を見せ、息詰まる大団円へと向かっていく。

夕暮れの激しい吹雪の中、広場の中央にジェイニーとハーレックがいる。その二人を犯人の高性能ライフルが、射程距離ぎりぎりの800ヤード離れた路上のリンカーンコンチネンタルから狙っている。「金が手にはいった」という連絡があり次第、犯人は躊躇なくライフルの引き金を引こうと身構えているのだ。だが、警察の包囲網もぎりぎりと絞られつつあった…。

騙される盲人

主人公のハーレックが突然の事故で失明するという不運に見舞われ、一時は生きる望みも失いかけたにもかかわらず、盲学校での生活訓練や精神科医の助けを得ながら、失明人生を前向きに生きて行こうとする姿には共感できる。ハーレックは白杖をついて一人で外出することもできるのである。

だが、盲人が世界で自立していくにはさまざまな試練に耐えなければならない。日本でも新しい紙幣が発行された時などに、全盲のマッサージ師が経営する治療院へ初めての客として施術を受け、ニセ1万円札を出して数千円のおつりを詐取する事件が相次いだ。同じような事件はアメリカでもあるらしい。ハーレックがタクシーで妹エリーの家へ駆けつけ、タクシー代を払う場面がそれである。ただ、騙そうとしたらしいタクシー運転手とハーレックのやり取りには、何かの間違いか不可解な印象が残ってしまう。その部分を引用してみよう。

タクシーが彼の妹の家の前に止まって彼は尋ねた。

「いくらだ?」

「17ドル35…」

ハーレックは財布を探り当てて紙幣を取り出した。運転手が咳払いした。

「中にいる人に出てきてもらって金額を確かめたほうがいいんじゃないかね。」

ハーレックは4枚の新しい5ドル札をトランプのカードのように扇形に広げ、彼の見えなくなった目を運転手が座っているに違いない位置に向けた。…ハーレックは運転手の鼻先に紙幣を突きつけた。

「ここに20ドルある。お釣りはいいよ。」

「どうしてあんたが合ってるって分かるんだい?もしかしたら、1ドル札かもしれないじゃないか。」

「5ドル札が4枚20ドルだ。」

「まあ聞きなよ。これが20ドルだとあんたには分かりっこないじゃないか、お客さん。」

「これは20ドルだ。」

「だれかここに出てきてもらって助けてもらったらどうだい?」

(中略 ハーレックが差し出したのが5ドル札かどうかで運転手と揉め、腹を立てたハーレックが運転手の手を締め付ける。)

「分かった。離せよ。あんたの金は合ってたよ。」

(中略 ハーレックは運転手に謝らせ、最後に次のように言い残す。)

「盲人から二度と金を騙し取ろうとするな。」

この場合、ハーレックが1ドル札を5ドル札と言い張って運転手に支払おうとするのであれば、運転手が第三者の立ち会いを求めることも理解できるが、ハーレックの差し出した紙幣が本物の5ドル紙幣なのだから立ち会いは必要ない。また、ハーレックの言うように、運転手が盲人から金を騙し取ろうとしていたのであれば、運転手が「中にいる人に出てきてもらって金額を確かめたほうがいいんじゃないかね。」などと言うのは不自然ではないだろうか。ちょっと気になった部分ではあるが、ハーレックが杖を上げてタクシーを止めるなど盲人の所作をよく捉えている。

作品中に登場する人物の心理描写や性格描写もしっかり書かれており、タクシー内での運転手とハーレックの会話の不自然さを除けば文学的価値も十分に水準を超えていると言えるであろう。

訳者の後書きによると、作者のデイビッド・ローンは、コーネル大学卒業で大学講師と連邦政府の技術開発分野やエネルギー問題の研究者として働いてきたという。1990年に第一作として『音の手がかり』を発表した。だが、日本にはあまり知られていない作家である。残念ながら新潮文庫の本書もすでに絶版となっているようだ。

視覚障害者ということで、私は点字図書館から録音図書になっている本書を借り受け、活字書は絶版になっているにもかかわらず読むことができて幸せだった。

(たけむらみのる 元都立文京盲学校教諭)