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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年9月号

1000字提言

「働きながら聞こえなくなって」その3

新谷友良

聞こえなくなって困ることはさまざまなのだが、絶え間なく耳に届いている(はずの)情報を漏れなく受け取ってしまうのは不可能だし、できたとしても大層疲れる。聞こえていた時のことを思い出すと聞きたい、聞く必要のあるものと聞き流してもよいものとは自然と区別できていた。聞こえなくなって、「聞き流す」など到底できない業だが、「聞きたいこと」を聞き、いらない情報は「聞き流す」必要はやはりある。

私は補聴器の装用を途中で諦めてしまったので実感が無いが、補聴器や人工内耳の装用効果の大きな人は、聞き流すことができているのかもしれない。また、ろう者は手話通訳を見ても、自然と見流しているように思える。しかし、中途失聴者が手話通訳や要約筆記を見て、聞き流す(見流す)ことは不可能に近い。いったんは通訳された情報を理解したうえで無視することはできるとしても、勘を働かせて通訳されている情報を簡単に聞き流す(見流す)ほどの度胸は無い。とにかくいったんは理解しようとするので、大変疲れてしまう。

これが新聞や本を読む場合はどうだろうか。老眼が進行しているせいで適当に読み飛ばすことが多いが、それでも読み流すことはやっている。要約筆記もノートやスクリーンに文字が流れるのは同じだが、その読み取り、理解の疲れと本を読んでいる時の疲れとは随分違う。その理由を考えて、「母語」に行き着いた。

アメリカ人が英語を聞いて聞き流す、ろう者が手話を見て見流す。「母語」であれば、それができるが、「第二外国語」では難しい。「第二外国語」は鈍った頭に翻訳作業を強いる。英語を聞いても手話を読んでも、頭の中では日本語への翻訳作業が続く。その作業が疲れの原因のように思える。

では、要約筆記は?同じ日本語なのだから疲れるはずは無いのだが、話し手の音声日本語をノートやスクリーンに書き表すところに何かがありそうだ。聞こえない私たちも、人の話を聞いている時は、意識せずに音声日本語モードで理解しようとしており、ノートやスクリーンに表れた書記日本語を頭の中で音声日本語に変換しているということは考えられる。

新聞や本では、書き手も読み手も書記日本語モードで一貫している。しかし話し手がいるとき、心のどこかのスイッチが、頭の中を音声日本語に切り替えてしまっているのではないか、それで要約筆記を見て疲れるのではないか?自分の頭、目の弱りを棚に上げてそのようなことを今考えている。

(しんたにともよし 社団法人全日本難聴者・中途失聴者団体連合会)