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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年11月号

1000字提言

学生無年金障害者訴訟

遁所直樹

私は1987年、海に飛び込み首の骨を折り、頸髄5番レベルの車いす利用者となった。福祉について考えるようになったのは、1993年、ダスキン障害者リーダー海外派遣事業第13期生として、アメリカの自立生活センターを見る機会を得たことからだった。団長さんから、「自分の問題を一生懸命やればそれが自立生活センターの理念(自己決定による自立生活)につながっていく」と励まされた。

2000年に正式に自立生活センター新潟のスタッフとなり、その後、2001年7月に全国9地裁で一斉に裁判を起こした。私の問題であった障害基礎年金が支給されないことに対する訴訟であった。そして、2007年9月28日・10月9日、相次いで最高裁判所で、判決が下された。「上告を棄却する」

学生当時、任意加入であったため、ほとんどの学生が国民年金に加入しない時代だった。小泉元総理も学生時の留学期間に国民年金に入っていなかった。たまたま障害を負った私たちは、障害基礎年金が支給されない。これは理不尽なことではないかと訴えた私たちに対する判決であった。

さらに、その実態は受理しないことによる判決の言い渡しであった。また、25年前の掘木訴訟の焼き直しとも言われている。生活保護があるからいいだろう、特別障害給付金の制度を作ったのだからよいだろうという判決文だった。立法府の広い裁量権があるから憲法に違反しないという理由で門前払いを受けたのである。

私たちの裁判は朝日訴訟、掘木訴訟に続く社会保障の裁判であった。特に、憲法第14条、平等権を求めたものであり、20歳前に障害を負った場合、20歳から無拠出で支給される障害基礎年金が、20歳を過ぎて障害を負った場合、支給されない。これは平等権からすると理不尽であるという趣旨を持って訴えた。理不尽な理由で苦しんでいる私たちの救済を、さらに全国に12万人いると言われている無年金障害者の救済を求めたものであった。

地域で普通に暮らしたい、自助・共助により、一生懸命生きてきた。公助を求めるには裁判を通して立法府に働きかけ、不備ではあるが特別障害給付金が支給されるまでになった。ただ単に眺めていたのではなく、私たちに必要なものだと訴えた成果だった。でも、裁定請求から最高裁判決に至るまで、原告のお父さん、原告当事者2人の方がもうこの世にはいない。

みんな必死な思いをして、この問題に取り組んできた。まだ結審がされていない原告がいる。これで終わったのではなく、また新たな始まりである。

(とんどころなおき NPO法人自立生活センター新潟事務局長)