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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年2月号

障碍理解とは言うけれど

寺田純一

脳性マヒ者運動の先輩たちが“青い芝の会”を立ち上げたのは1957年。昨年11月3日で50周年を迎えた。日本が軍国主義から民主主義に生まれ変わり、「法の下の平等」を掲げた新憲法ができて10年余り経った頃だが、脳性マヒのような幼い時からの障碍者は、ほとんどが親きょうだいの下で「家の恥」として隠されていた。「脳性マヒ者よ、外に出よう」と、会の役員が訪ねて行っても、「うちにはそんな人はいません」と追い返される。この時代を象徴する言葉が、「座敷牢」である。

親きょうだいの下で、「これはあぶない」「あれはみっともない」と、何がどこまでできるのかという、自ら生きるための社会経験や知恵を身に付ける機会が奪われてきたことから、私たちの運動では、「親がかり福祉の発想の転換」を訴えてきた。「親がかり福祉」とは、成人した障碍者が親に依存して生きることを前提とした福祉施策を意味する、いわば造語である。とりわけ“国際障害者年”を契機に、「適切なレベルの所得を保障された上で、必要なモノやサービスの対価を自ら支払うことが、独立(自立)の第一歩である」との観点を行政や関係団体に提議してきたことが、社会連帯の理念に基づく障害基礎年金の創設に向けたインパクトをもたらした。これは、稼得能力のない障碍者が独立した個人として社会に認められるための条件として、所得保障と応益負担が車の両輪という考え方だが、今日の障碍者運動の主流は「応益負担反対」で、逆な道を突っ走っている。

今回の特集のテーマは「障碍理解」である。私たちも運動の初期には「同情ではなく理解を!」のスローガンを掲げた。しかし、ひるがえって「何を理解してほしいのか」と問われれば、人それぞれに、明確な答えは返ってこないのではないか。たとえば私たちは、1984年以来、「害虫」や「害悪」を連想させる「障害者」の「害」を、社会が「かべ」をつくっているという意味での「碍」に変える運動を展開してきた。しかし他の団体では「害虫」の「害」を平気で使い続けている。余談になるが、実は「障碍」の文字は昔は広く使われていたのが、1949年に身体障害者福祉法ができる時に、「碍」が当用漢字にないからといって、「害虫」の「害」を当て字したという話を、運動を始めた後で知った。

脳性マヒ者が生活保護を使ってでも結婚や子育てをするようになったのは、青い芝の会の運動からである。私も1971年に結婚して都営住宅で生活していたが、外へ出ると子どもたちがついてきて、アべべ、アベベとはやし立てる。マラソンのアベベかと思ったら、何を言っているのか分からなくて、アベベベベと聞こえるのだという。

今日、私がこの18年暮らしている地元の周辺では、電動車いすなどで多くの障碍者が街を闊歩(かっぽ)しており、珍しがられたり、奇異の目で見られたりすることはほとんどない。妻が行きつけのスーパーに行くと、手助けを必要とするところは従業員がちゃんと見ていて援助してくれる。これをもって「障碍理解が進んだ」というのかもしれない。しかし、障碍者の生活や活動、行政や住民からの支援も、地域によってさまざまである。バリアフリーを推進しているという岐阜の高山市を数年前に訪れた折り、「東京のように障碍者が親から独立して生活するというのは、こちらでは考えられません」と言われた。精神障碍の人たちからは、「私たちの現状は、脳性マヒの皆さんが青い芝の運動を始めた頃の状況と似ている」という話もよく聞かされる。

6、7年前になるが、ガラガラの電車の中で、黒のスーツを着た男性が私の顔をまじまじと眺め、「気持ち悪いからあっち向いてろ」と言う。私は黙って相手の顔を睨(にら)み付けた。しばらくじっと凝視していたら、ちょっとヤクザっぽいその男はスゴスゴと立ち上がり、遠くの席に移動した。行きずりの人にちょっと注意しただけで殺されることもある時代だが、こういう場合は毅然とした態度が大事だと改めて確認した。

障碍理解とか何とか言っている一方で、障碍者をめぐる社会状況や制度は、ある面で年々生きにくいものとなっている。私たち夫婦も障碍の重度化でヘルパーを使うことが多くなっているが、65歳になった途端に、障碍者ではなく高齢者だとして介護保険に追いやられてしまった。同居家族がいれば日中不在でも家事援助はダメだとか、1時間半以上はできないということで仕事が中途半端に終わるとか、通院の付き添いは認めない等、介護保険では次々と新たな制約が加わってくる。外出や自治活動の自由など、運動の中でさまざまな改善を勝ち取ってきた生活施設からも排除で、独立や自由よりも介護の安全を優先する老人介護施設に申し込んで、今いる人が死ぬのを待ちなさい、ということになる。

理解とは相互的な営みである以上、相手の立場や状況を分からずに一方的に理解しろというのではかえって溝が深まるのがおちであろう。その点で気になるのが応益負担反対の運動である。障碍者は特別な存在だからカネを払わなくていいんだというふうにも聞こえる。

今まで障碍者運動は、国の予算は自分たちのものだと思っているお役人との取り引きが中心であった。これからは、納税する側の生活者庶民の立場を理解し、共感を生み出せるような生き方や方針を模索する意識改革が必要ではないのか。そうしないと、今はノーマライゼーションの世の中でも、障碍者にカネがかかりすぎると思っている人も少なくない。差別者と言われることを恐れて黙っているが、「歴史の振子」という言葉もある。何かのきっかけで雪崩が起こって、障碍者が再び社会の片隅に押しやられる日が来るのではと、不安に駆られるこの頃である。

(てらだじゅんいち 東京青い芝の会)