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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年2月号

1000字提言

特別支援教育が問うべきこと

玉井邦夫

特別支援教育の「完全実施元年」も残すところわずかという時期になってきた。果たして、その趣旨は徹底されてきたのだろうか、という議論はここではしない。もともと、これほどに大きな考え方の転換が、それほどたやすく現場に定着するとは到底思えないからだ。これまでの特殊学級を特別支援学級と看板替えしただけ、という学校だってあるだろう。だが、教育制度や障害観の転換を謳う特別支援教育が、一面では行財政改革(?)であるという本質から、当然のように危惧されていた「地域間の較差」については、どうやら「着実」に進行しているように感じられる。地方自治体の財政は言うまでもなくおしなべて厳しい状況にあり、人的にも物理的にも予算的な大盤振る舞いなど期待できるはずもないが、そうした「量的」側面以上に深刻だと感じるのは発達障害という新たな障害カテゴリーに対峙することになった教育行政や学校現場の「質的」な較差だ。

特別支援教育に関連したテーマでの研修を依頼されることは多いが、2年ほど前から、とても気になる質問を受けることが増えてきた。たとえば「今担任している子は、入学の時には高機能自閉症という診断を受けていたのですが、3年生の終わりに別なドクターからアスペルガー障害だと診断されました。どちらが本当なのでしょうか?」という質問である。「その質問に答えが出たとして、その子への関わり方として何か違いが出ますか?」と訊き返したくなるが、この質問の根底にある問題の深さを考えると茶化すことでは済まされない。

この質問は、ふざけてしているのではない。それどころか、質問者は得てしてとても真剣である。そこにあるのは、矢継ぎ早に紹介される新たな障害名に翻弄され、いつのまにか目の前の子どもがどのカテゴリーに属するのかを決定することが至上命題になってしまった姿である。本来は、「どのようにして躓(つまず)いてしまうのか」というメカニズムの理解こそが「障害」の理解と手だてに結びつくはずなのだが、その手前で問題が停まってしまったかのようだ。

もちろん、これは過渡期の問題で、メカニズムの理解を効率的にするためにカテゴライズへのこだわりが生じているのだと信じたい。私自身、機会あるごとに各地でそのような物言いをしている。だが、自立支援法に「能力に応じた」という思想が蘇り、教育においてもカテゴライズ志向が強まるとしたら、ノーマライゼーションということばの意味についての啓発は、今こそ重要なのかもしれない。

(たまいくにお 山梨大学教育人間科学部障害児教育講座)