「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年2月号
文学にみる障害者像
『クリスマス・キャロル』と『カラマーゾフの兄弟』
―ケアする存在としての障害者―
高橋正雄
一般に障害のある者は、周囲からケアされるべき存在として捉えられている。しかし、19世紀に発表されたディケンズやドストエフスキーの作品には、周囲の人々をケアする存在としての障害者が登場する。
1.ディケンズの『クリスマス・キャロル』
1843年に発表された『クリスマス・キャロル』1)は、ディケンズのいわゆるクリスマス物を代表する名作であるが、この作品にはスクルージという孤独で強欲な老人の心を癒して真人間に再生させるティムという子どもが描かれている。
スクルージは「貪欲な、がりがり爺」で「秘密を好み、交際を嫌い、かきの殻のように孤独な老人」だった。彼はボブという書記を週15シリングという薄給でこき使いながら事務所を経営していたが、「彼の心の中の冷たさが、年老いたその顔つきを凍らせ、尖った鼻を痺れさせ、頬を皺くちゃにし、歩きかたをぎごちなくさせ、眼を血走らせ、薄い唇を蒼くした」。スクルージにとっての会心事とは「人情などはいっさい受けつけず、人を押しのけ、突き飛ばして進んで行く」ことであり、彼は、貧しい人々のために寄付を頼まれても、「死にたい奴は死なせたらいいさ。そうして余計な人口を減らすんだな」と断るような冷酷・無慈悲な男だったのである。
しかし、あるクリスマスの夜、スクルージのもとを幽霊が訪れる。幽霊は、幼いころのスクルージの姿を再現して見せたり、貧しくも互いに愛し合って暮らしているボブ一家の様子を見せたりするのだが、その中でスクルージに最も強い印象を与えたのは、ボブの末っ子のティムという少年だった。
ティムは小さな松葉杖をかかえ、その足には鉄の輪がはまっているなど、身体に障害のある少年だったが、父親と教会に出かけたティムはその帰り道、次のように言ったのである。「父さん、教会でみんなが坊やを見てくれたかしら。そうだったら嬉しいけれど。だって聖書には足なえの乞食が歩けるようになったり、眼の見えない人が見えるようになったことが書いてあるから、坊やの足を見れば、ちょうどクリスマスの日にみんながそのことを思い出して嬉しいだろうと思うよ」。
そんなティムのことを、ボブは「まるで純金のように申分なかったよ」と絶賛し、ティムの中に障害があるがゆえの思慮深さやユニークな考え方を見出して次のように言う。「あの子は一人ぼっちで坐っていることが多いもんで、考え深くなっているんだろうね。それはもう聞いたこともないような不思議なことを考えているんだよ」。
その上でボブは、自分を酷使しているスクルージのことまで、「今日の御馳走を寄付してくださったスクルージさんの御健康を祝します」と祈るのだが、こうしたボブ一家の様子を見せられたスクルージは、「幽霊さま、ティム坊は長生きするでしょうか?」「ああ、御親切な幽霊さま!どうかあの子を助けてくださいまし」と懇願する。しかし、それに対して幽霊は、「もしあの子が死にそうならその方が結構ではないか。余計な人口が減るわけだから」と、かつてスクルージが口にした言葉を引き合いに出しながら、「もしお前の心が石でなく人間なら、余計とは何であるか、どこに余計なるものがあるのかをはっきりわきまえるまでは、この悪い文句をさしひかえるがよい」と言うのだった。
その後スクルージはボブ一家を支援するようになり、ティムの第二の父親としてかつてないほどの善人に生まれ変わるというのが一遍の趣意であるが、『クリスマス・キャロル』に描かれているのは、いわば救済者としての障害者である。貧しいながらも家族の愛に包まれて育ったティムは、自らが人々の慰めとなることを願うだけでなく、スクルージという冷酷な守銭奴を救う役割も果たしている。ティムは、障害という部分では不自由な存在かもしれないが、その分思慮深いユニークな能力を有する存在として描かれているのである。ここでのティケンズは、いささか理想化した形ながら、他者からケアされる障害者ではなく他者をケアする障害者を描いていることになるが、そう言えば19世紀のヨーロッパ文学には、『イワンの馬鹿』や『ノートルダム・ド・パリ』など、障害者を理想化したような作品が少なくない2)。そして、そんな作品の一つに、ディケンズを敬愛し少なからぬ影響を受けていたドストエフスキー3)の『カラマーゾフの兄弟』がある。
2.『カラマーゾフの兄弟』のニーナ
『クリスマス・キャロル』のおよそ40年後に書かれた『カラマーゾフの兄弟』4)には、ニーナという、やはり周囲をケアする者としての病者が登場する。
ニーナは貧しい二等大尉スネギリョフの娘で、年齢は20歳位である。しかし、ニーナについては、「非常に哀れな存在で、せむしである」「両足とも麻痺していざり同然」などと表現されるように、彼女は重い病を抱えていた。ニーナは「全身リューマチで、夜になると右半身がうずいて、ひどく苦しむ」のである。
しかし、ニーナは家族を心配させまいとして、そんな痛みにもじっと耐え、うめき声ひとつ立てずにいた。そればかりかニーナは、食事の時には犬にでもやるしかないような最後の一片をとるような女だった。「あたしはこの一片にも値しないのよ。みんなのを横分取りしているんだわ。あたしはみんなの重荷になっているんですもの」「あたしにはそんな値打ちはないわ、もったいない、あたしは役に立たない、何の値打ちもない片輪ですもの」。
ニーナは、家族に尽くされることを重荷に感じるほど自己卑下的な感情の強い女性だったのである。だが、そんなニーナのことを、彼女の父親は「人間界に舞いおりてきた……肉体をそなえた天使」と賛美する。「あの子は天使のようなやさしい心でみんなのことを神さまに祈ってくれているというのに、値打ちがないどころじゃございませんよ。あの子がいなかったら、あの子のもの静かな言葉がなかったら、わが家はまさに地獄です」。
「せむしの天使」と称されるニーナは、この貧しくいさかいの絶えない一家のまさに守護天使のような存在だったのである。彼女は、家族からケアされるだけの存在ではなくむしろ家族をケアする存在なのであり、「気の毒なこの娘の、すばらしいほど美しい善良そうな目が、何か穏やかなやさしさをたたえて、アリョーシャを見つめていた」と表現されるごとく、重い障害を抱えてなお魂の美しさや人間としての優しさを保つ存在として描かれている。その意味ではニーナは、同じ『カラマーゾフの兄弟』の中のアリョーシャや『悪霊』のチーホン僧正とともに5)、病みながら生きる治療者の系譜に属する人物ということになるが、そこには人は病んでなお精神的な健全さを保ちうるというドストエフスキーの人間観や、病みながら生きる者への畏敬の念をうかがうことができる。もっとも、ニーナが語る「あたしはみんなの重荷になっている」「あたしは役に立たない、何の値打ちもない片輪」という自己規定には―その背後には彼女の置かれた苛酷な状況があるにせよ―、障害者の生きる権利や人間としての尊厳を自ら否定するような響きがあることも事実であって、そこに19世紀的なヒューマニズムに基づく障害観の限界を見ることもできるであろう。彼らは逆境にも健気に耐える控え目で善良な存在である限りにおいて評価される存在にとどまっているようにも思われるが、ドストエフスキーもまた、ディケンズ同様、他者をケアしうる能力や魅力を有する障害者を描くとともに、ケアすることとされることが表裏一体の関係にあることを洞察していた作家であることは間違いない。
(たかはしまさお 筑波大学障害科学系)
【参考文献】
1)ディケンズ(村岡花子訳);『クリスマス・カロル』新潮社、1988
2)高橋正雄;文学にみる精神遅滞者、精神分析5;81~95、1997
3)高橋正雄;病跡学と人格障害、こころの科学93;72~78、2000
4)ドストエフスキー(原卓也訳);『カラマーゾフの兄弟』新潮社、1978
5)高橋正雄;ドストエフスキーの『悪霊』、ノーマライゼーション27(10);56~58、2007