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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年5月号

1000字提言

知的障がい者の自立生活に対する支援
~「自立生活に本人の意思は必要か?」~

岩橋誠治

私は「自立」を「自らによって立つ」こととして捉えています。すなわち、周囲の都合や価値観・社会の環境等に縛られることなく、自らの想いと自らの現実を持って、地域の中で暮らし続けることだと考えています。

この「自らの想い」というものが、知的当事者の場合なかなか表現できないという面があります。単に「言葉化できない」だけではなく、「現状を知る」「将来を見据える」といったことが難しい。また「考えきれない」「整理できない」という面があります。仮に明確な想いを当事者自身が発したとしても、受け手に理解されなければ意味を成さないということもあります。そのような彼らに「自立生活の意思」を問うたところで、「自立生活」という漠然とした事柄に対して明確な意思を発するのはかなり難しいと思います。

当事者の一人は、自分が親元で暴れたから「罰として自立生活をしなければならない」と受け止め、別の当事者は「親と暮らせない」と受け止め自立生活を始めました。また、ある当事者は「自立生活をしたい」と明確に言いました。支援者たちは本人の想いを受け止め支援するために、その想いを確認しました。自立生活という概念的なことから生活上の細かなことまで。本人の意思を尊重したいと思う支援者たちから発せられる問いに、当事者は「生活全体をイメージできない」「どのような支援が必要かが分からない」そして何をどのように話せばよいか分からなくなり、当初口にした想いは、日に日にその声のトーンを落とし、元気のない本人を見て周囲は「時期尚早ではなったのか」と判断し、一旦自立生活を断念することになりました。

家族が子どもを施設に入れなければならない時、本人の意思を確認する家族はいるでしょうか?でも、知的当事者の自立生活支援をしていると「なぜ自立生活(=親元を離れる)するのか?」「本当にしたいのか?」「どのようにするのか?」「それは実現できるのか?」とよく聞かれます。「自立生活が当たり前」と答えるだけでは済まない場面が多々あります。

重度身体障がい者から始まった「自立生活運動」は、閉ざされた自らの生活を確保する運動です。それは明確な意思を発することのできる当事者から広がっていきました。それ自体は何ら否定されるものではありません。しかし、知的当事者に対し同様に「本人の意思」を求められるとしたら、「知」に障がいをもつ人たちにとっては、いつまでも自立生活を実現することはできなくなってしまうように思います。

「罰としての自立生活」「親と暮らせない自立生活」と言って始めた当事者たち。具体的に生活を続ける中で10年を過ぎ、「自立生活は良い」と答える姿の中にその一つの回答があるように思います。

(いわはしせいじ たこの木クラブ)