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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年6月号

1000字提言

「幼年期の終わり」をめざして

玉井邦夫

ノーマライゼーションという言葉を耳にするたびに思い出すことが二つある。

ひとつは、障害者の自立生活支援の実情視察を目的にアメリカのバークリー市を訪れた時のことだ。10年以上前である。「世界一バリアフリーの進んだ街」というふれ込みだったのだが、到着して驚いた。街中に段差。なにしろ生活必需品を購入するスーパーですら路面から数段の階段があるのだから、さぞやその時の私は「バリアフリー?」という顔でいたに違いない。主要な交通手段のひとつであるバスには、たしかにリフトが付いている。ところが、乗ってみるとこのリフトが明らかに使われておらず埃にまみれている。

あまりにも不思議に思った私は、バスターミナルで、乏しい英会話力をも顧みず、休憩中の運転手に尋ねた。バリアフリーの街だと聞いて来たのだが、リフトが全然使われていないような気がする、なぜだ、というわけである。黒人の運転手は、むしろ怪訝そうな表情を浮かべて答えた。「なぜ使う?」。

なぜ使うったって……ここは自立生活支援のメッカ、車いすの利用者も多いはずだ、なのに……という私の質問がきちんと相手に伝わったのかどうか定かではないが、彼は続けた。「車いすの乗客だけじゃないだろう、バス停には?他の乗客が車いすの乗客をバスまで引き上げれば済む。たとえバス停にいるのが車いすの乗客1人だったとしても、バスに乗ってる客が降りて手伝えばいい。乗客がいなくたって通行人がいる。リフトが必要になるのは、俺と車いすの乗客の2人しかいない時だ。そんな時はめったにない」。

ふたつめは北欧だ。根が素直ではない私は、福祉先進国としてあまりにも名高いスウェーデンでも、感銘を表に出さなかった。ところが、帰国を翌日に控え、空港で割高な土産品を買うよりも、という気持ちでホテル近くの日曜大工センターのような店に入って打ちのめされた。おそらく在庫一掃目的であろう、ワゴンに積み上げられた園芸用品が売られていた。それが「手が震えても土がこぼれない可動式の片手スコップ」とか「車いすのまま片手で操作できる高枝鋏」といった品物なのである。こうした特殊用具は、日本でももちろん入手できるだろう。問題は、そうした品物が存在しているかどうかではない。それが、日曜大工センターのワゴンの中で叩き売りされているか、という点である。

欧米がすべてにおいて優れているなどとは全く思わない。だが、ハードウェアに頼るバリアフリーの街づくりとか、特別な申請によって入手される「福祉器具」は、ノーマライゼーションという思想の幼年期の姿に過ぎないのだと刻印づけられた出来事だった。

(たまいくにお 大正大学人間学部)