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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年9月号

アメリカの権利擁護運動
―ADAPT(アダプト)の活動

泉木乃花・権田千明

はじめに

運動によってADA(障害を持つアメリカ人法)までを勝ち取ってきた全米の障害者にとって、継続的な権利擁護活動は自分たちの権利を守るために必須である。日本でも当事者団体の活動は盛んであるが、ここに紹介するADAPTはアメリカの障害者はもちろんのこと、連邦政府からコミュニティ・レベルまでの行政担当者に知られている、障害当事者団体の中で一番強力な権利擁護運動団体である。

ADAPTの歴史

1960年代、人種差別が根強く残っていたアメリカは、黒人解放運動家、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の指揮する非暴力な公民権運動に激しく揺さ振られていた。ADAPTの設立者ウェイド・ブランクは、白人でありながら黒人差別が激しかったアラバマ州で公民権運動に関わり、社会の主流から閉ざされた黒人たちがどれだけひどく圧迫されているかを知った。1971年まで、彼は施設で暮らす障害をもつ若者の生活の質を高めるべくいろいろな努力を尽くしたが、施設の中で平等と威厳のある生活を追及する考えに矛盾を抱き始めた。

1974年、ウェイドはアトランティス・コミュニティ自立生活センターを設立し、障害者が地域で暮らせるようにと、彼ら自身の意思を尊重した介助サービスを提供し始めた。最初は、以前解雇された施設から9人もの若い障害者を開放し、地域で彼らが平等と威厳のある生活ができるよう自らの収入を割いて介助サービスに費やした。そして、ウェイドは障害者が地域で独立して生活するにはまず公共交通機関のアクセス化が不可欠だと強く感じ、仲間とともに1978年、今のADAPTの前身である「アクセシブルな公共交通を求めるアメリカ障害者グループ」(American Disabled for Accessible Public Transit:ADAPT)を設立した。

1978年7月、公共交通機関のアクセス化の重要性を世間に訴えようと、彼は19人の障害者活動家たちとコロラド州デンバーで公共バスを2日間占領した。この大胆な活動がきっかけとなり、各地でADAPT支部が次々と設立され、2008年の現在では30以上の支部がアメリカ国内で活動を続けている。

1990年、ADA成立によりアメリカ国内すべての公共交通機関のアクセス化に向けた規定がアメリカ交通省大臣により提出される。この法律は、1970年に成立された「都市大量輸送交通機関法」を基に修正、変更された。この勝利はADAPTが12年間必死に戦ってきた証となった。ADA可決後、ADAPTは彼らのビジョンを障害者の地域生活および介助サービスのシステム化の改善・促進を国に要請することに移した。そしてADAPTの略称はそのまま使用し、名称を「今日の介助プログラムを求めるアメリカ障害者」(American Disabled for Attendant Programs Today)と変更した。

介助サービスは重度の障害者が地域で暮らすには不可欠なサービスであり、そのため、ADAPTは低額所得者のための国民医療保障制度に含まれる長期介護資金の少なくとも25%を施設ではなく地域介護サービスへ回すように働きかけている。

ADAPTアクション年表

1983 10月 初めてデンバー(コロラド州)に集結
1984 9月 ワシントンDCでバスを占領
10月 初めて首都ワシントンDCへ向かう
1985 4月 サン・アントニオ(テキサス州)で公共交通協会(APTA)とサン・アントニオ市長と面会
10月 ロサンゼルス(カリフォルニア州)でAPTAと衝突
1986 5月 シンシナティ(オハイオ州)のADAPTアクションで17人逮捕
1987 4月 フィニックス(アリゾナ州)でADAPTアクションを実行し5人逮捕
9月 サンフランシスコ(カリフォル二ア州)の対APTAのADAPTアクションで43人逮捕
その他、ワシントンDCでADAPTアクションを実施
1988 セント・ルイス(ミズーリ州)とカナダのモントリオール市
1989 9月 アトランタ(ジョージア州)
その他、スパークス(ネバダ州)とフィラデルフィア(ペンシルベニア州)
1990 3月 ワシントンDCで車いすから降り議事堂の石段をよじ登る
4月 ジョージア州知事事務所を占拠
1991 ボルティモア(メリランド州)とオーランド(フロリダ州)
1992 シカゴ(イリノイ州)とサンフランシスコ
1993 9月 ナッシュビル(テネシー州)で対アメリカ健康保険協会(AHCA)のアクション
その他、ワシントンDC
1994 ワシントンDCとラス・ベガス(ネバダ州)
1995 10月 ランシング(ミシガン州)
その他、ワシントンDC
1996 11月 対アトランタ民主党本部でのADAPTアクションで86人逮捕
その他、ヒューストン(テキサス州)
1997 ワシントンDC
1998 11月 ワシントンDCで共和党本部と民主党本部を占拠
その他、メンフィス(テネシー州)
1999 11月 コロンバス(オハイオ州)で州役所を占拠
その他、ワシントンDC
2000 6月 ワシントンDCで、ゴア副大統領と会見
2001 5月 ワシントンDCでAHCAと面会
10月 サンフランシスコで対ラグナ・ホンダ療護施設アクション
2002 ワシントンDCとニュー・オーリンズ(ルイジアナ州)
2003 5月 ホワイト・ハウスで100人逮捕
9月 フィラデルフィアからデモ行進出発(同行記参照)
2004 3月 ワシントンDCで上院議員財務委員会室を占拠
2005 ワシントンDCで国会事務所を占拠し104人逮捕
2006 3月 ナッシュビル(テネシー州)市内を占拠し60人逮捕
9月 ワシントンDCで公共住宅機関所長協会(PHADA)並びに大型公共住宅協会(CLPHA)と衝突、また共和党本部を占拠
2007 ワシントンDCとシカゴ

ADAPTアクション

ADAPTはアメリカ国内で活動する障害者の草の根団体として、最強である。現在も施設に閉じ込められている障害者の解放を目指し、数々の活動に力を注いでいる。彼らの活動は、ADAPTアクションと呼ばれ、年2回全国から集まった活動家による非暴力なデモを行う。国や地方行政機関へ介護サービスの提供の直接的な呼びかけである。彼らのデモは、時には政府の事務所を占拠したり、行政側と激しく衝突し、逮捕される活動家は少なくない。この直接的なデモ行為は、自分たちの問題を公共に過激にアピールし、緊張した対立状態を盛り上げ、交渉を絶えず拒む行政側をこれ以上無視できない状態に追い込むのが狙いである。

「ADAPT Free Our People March われわれの仲間に自由を」の行進同行記(権田千明)

2004年9月7日、大雨が降りしきる中、出発地の住民や支援者の声援を受けながらペンシルベニア州フィラデルフィアにあるリバティベルにて「ADAPTわれわれの仲間に自由を」の行進がスタートした。これからの2週間、障害者とボランティアなど総勢150人が、首都ワシントンDCの連邦議会を目指して144マイル(230km)の距離を行進するのである。

このイベントはADAPTの歴史上で最も長く、過酷な行進である。2週間、144マイルという距離を150以上の人々がテントで寝泊りをしながら進んでいくという、前代未聞かつ挑戦的なイベントにだれもが不安を抱いていた。そのため、このイベントを開催するに当たって綿密な計画が随分前から進められていた。

私はボランティアとして支援者の役を担い、車いすを押したり、食事の準備をしたり、テントを立てたりと必要に応じて毎日違う仕事についた。特に驚いたことは、この行進に参加した約100人の障害者のうち、半分以上は介助を必要とする重度障害者であったが、参加した介助者はわずか15~20人程だった。みんな周りから言われることなく必要な仕事を交代でこなしていた。9月とはいえ日中30度を超える日々が続いたが、幸い具合いが悪くなる人や病気になる人はほとんどいなかった。土砂降りに見舞われ、たくさんの電動車いすが止まってしまうというアクシデントがあった日も、ボランティアによる夜通しの修理により、次の日には全員の車いすが準備できていた。

この2週間の旅の中でADAPTには今までにない数多くの体験があった。シャワーを浴びることができたのは2週間のうち、たったの1回。昼食は毎日ピーナツバター&ジャムのサンドイッチだった。大雨のせいで、テントも寝袋もびしょ濡れになったこともあった。日差しが照り返すアスファルトを歩いているせいで、みんな顔や手足の皮がむけるくらいの日焼けをした。それでも彼らは止まることなく毎日歩き続けた。施設で閉じ込められている仲間のことを考えながら、ひたすらDCを目指して前へ進んだ。

この旅で一番の思い出となったのは、この挑戦的な行進を達成したことよりも、人との関わりを通じて仲間と目的の再認識、そしてADAPTメンバーとしての絆を深めたことである。毎日日が暮れるまで、仲間といろんなことを語り合った。行進中みんなで歌を歌いながら歩いた。途中、地元の人の親切なもてなしのおかげで時にはゆっくり休むこともできた。

旅10日目のメリーランド州ボルティモアでは、300人以上もの障害者とボランティアが新たに加わった。ADAPTはエネルギーを充電してDCまで残りの4日間、必死に行進し続けた。ワシントンDCの連邦議会近くにある最終地点の公園には、1万人を超える障害者団体の代表や支援者たちが集まっていた。旅のハイライトは450人以上ものADAPTメンバーが最終目的地の公園に着いた時だった。あちこちで湧き上がる人々の歓声に私は鳥肌が立ち、それと同時に達成感と充実感で溢れ出た涙が止まらなかった。気がつくと、自然と仲間と抱き合って喜びを分かち合っていた。旅に参加した450人、一人ひとりが主役に見えた。彼らの誇らしげな顔が議事堂前に輝いていた。

ADAPTは休むことなく、次の日も成立法案を要求しに議会まで出向き、彼らの主張を伝えた。この「ADAPT Free Our People March われわれの仲間に自由を」の行進は、成功とともにADAPTの伝説に新たな歴史を刻んだ。

ADAPTの組織

ADAPTには公式な団体の組織構造はないが、支部に当たる23州の32グループが積極的に地元で活動を続けている。運営会議が年に2回ほど各グループ、または参加希望者とで行われる。電話での情報交換もよく使われる。ADAPTアクションの際には、各グループから選ばれた12人程のリーダーが作戦計画を立てる。グループは6つのチームに色分けされ、6人の経験豊かなリーダーが各チームをまとめるような体系になっている。

ADAPTの財政は募金活動を基盤とし、そのほとんどは各グループに適したやり方で行われている。たとえば、ガレージ・セール、コンサート、手紙での依頼などである。ここ何年かは中央レベルでの募金活動を行っている。ファン・ラン(募金活動を目的としたマラソン)などがいい例である。その利益は、ナショナルADAPTと地元のグループとで分けられる。また、ナショナルADAPTはイベントのスポンサーを探したり出版物を出したりもしているが、その結果はまちまちである。さらに、ナショナルADAPTはさまざまな財団に助成金を求めるが、残念ながらその金額はたいてい少ない。

ADAPTのメンバーは多彩で、自分たちのビジョンとゴールを信じ、やる気があるならだれでもメンバーになれる。ほとんどの活動は地元で行われるので、地元のグループと関わることから始まることが多い。時々、新しい場所で新しいADAPTグループを設立できるメンバーもいるが、大半は施設に閉じ込められ、その経験がADAPTの活動に参加する勇気となりメンバーとなる。多くのメンバーは身体障害者だが、精神障害者や知的障害者で活躍しているメンバーもおり、障害が無い人もメンバーになれる。多くのメンバーは介助サービスを使っている。また、介助者もメンバーとなれる。

ADAPTアクションの際、メンバーの何人かは有給休暇を使ったりして活動に参加している。しかし、アメリカの障害者の失業率が75%という現実があり、ADAPTメンバーの多くが失業中、または無職である。その第一の理由は、ジョブ・アコモデーション―仕事に対応するための介助者を雇ってくれる会社―がないからである。

ADAPT支部が設立されている州
図 ADAPT支部が設立されている州拡大図・テキスト

行政や他団体との関係

連邦政府や州政府のADAPTに対する反応はさまざまである。ADAPTを頭のおかしい、突飛な障害者たちと勘違いする政府の役人もいるが、彼らの確固とした活動を見て徐々に理解を示してくれることも多い。政府との関係の良し悪しよりも、政府の人々に障害問題について教育するために、直接連邦や州政府を尋ね、障害者の声を聞いてもらうということがADAPTの目的である。

ADAPTアクションの最中、何人かのメンバーが逮捕されることがある。その際には、おとなしく法に従い呼び出し状をもらうか、刑務所に連れて行かれる。罰金を払えばすぐ刑務所を出られるが、多くのメンバーには罰金を払うお金がない。

介助サービスを支持する多くの自立生活センターや大半の障害者団体はADAPTを支援し、彼らの力を利用して対州・市政府交渉を成功させることもある。しかしながら、薄弱者の声(知的障害者団体の一つ)や、アメリカ健康保険協会(AHCA)はADAPTを支援していない。

おわりに

今年2008年に、ADAPTは設立25周年を迎えた。現在も各地でいろいろな活動をしているが、さらに運動を盛り上げている。

彼らの仲間の障害者を施設から解放し、自由を手に入れることを祈って。

Free Our People! われわれの仲間の解放を!!

(いずみこのか・バージニア州北部自立生活センター 自立生活スペシャリスト、ごんだちあき・カンザス大学、自立生活研究訓練事務所 研究助手)