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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年9月号

文学にみる障害者像

徳田秋声著『盲人』
─感受性豊かな盲目少年の成長過程を綴る物語─

関義男

1990年頃、筆者が明治期の埋もれた文学作品を渉猟していた時に偶然目に入ったのが秋声の『盲人』であった。秋声は『黴』『あらくれ』『仮装人物』『縮図』等の作品で世に知られ、明治、大正、昭和の三代にわたって活動した自然主義の代表的作家として著名であるが、多くの作品は忘却されていた。当時、秋声全集(全18巻)が刊行されていたが、これとても収録されているのは全著作の3分の1以下であった。

『盲人』は視覚を完全に失った状態で生まれた嬰児が成長の過程で音楽に目覚め、ピアニストとして成功するまでの物語で、秋声作品の一面しか知らない当時の筆者にとって、抒情豊かで細やかな美しい叙述に驚きもし、この作品にすっかり魅せられてしまったのだった。物語は幼児から少年期にかけての成長過程に重点がおかれ、視覚以外のすべての感覚をとおして外界のさまざまな事象に興味と探索心をもち、時に戸惑い、驚き、恐怖し、そして喜びや感動をもって認識しながら知識を蓄えていく様子が描かれている。

まずはそのあらましを紹介したい。

――今市在の豪家、風間家の一室で嬰児が産声を上げた。嬰児の啼き声に母親はいち早く異常を感じとる。そして日々の嬰児の様子から盲ではないかと疑いを抱く。嬰児の目は綺麗に冴えているが、光に逢っても其方向へ首を向けようともしない。医師の診察によって「不治の盲目です」と言明されるのだった。

嬰児は涼一と名付けられた。涼一には戦争で右片足を失い、左手も機能しなくなった身体障害者の伯父(母親の兄)がいる。伯父は生来乱暴者だったが、障害を被って以後は気質が穏やかになり、始終一室に籠もって読書するようになった。しかし頭脳は絶えず燃えいるようで「人生は戦闘だ。不具だからといって、意気地なく勝者の足元に屈する訳にはいかん」と憤慨したりもする。伯父は「あの子を盲人だからと言って、むやみに大事にして甘く育てると、末が覚束ない」と言い、涼一の成長と教育に積極的に関わることになる。母親は、何の因果で盲の子が産まれたのだろう、自分の何の罪が可憐なこの子に報いたのだろうと、人一倍綺麗な涼一の顔を見るたびに胸が張裂けるような苦痛を感じる日々を過ごしていたが、兄(伯父)の提言を受け入れ、協力して涼一の養育にあたるのだった。

涼一は人一倍感受性の優れた子で、季節の変化や色彩、大気の流れや日の光等のすべてを音として捉え理解しようとする。理解できない事象に出会うと不思議そうな表情をし、頭脳は不安になって動揺したりもする。ある日室内ばかりで過ごしていた涼一が初めて屋外の丘に連れ出された時、大自然のさまざまな事象が音となって間断なく波のように頭の中に突き進んでくるのに圧倒され、昏倒してしまう。

この出来事に反省した母親と伯父は、いっぺんに外界の激しい刺激にさらすことをせず少しずつ外界への窓を広げ、涼一の顔に不審の色が浮かぶ度に丁寧に説明し理解の手助けをしてやるようになる。

涼一は15歳になった。ある日の夕方、厩の方から作男の吹く笛の音が哀切韻々と聞こえてくる。涼一の心は笛の音に魅せられ、このことが音楽世界に目覚める最初のきっかけになる。

家族の愛を受けて順調に成長したかに見える涼一であったが、子どもに似気ない悲哀の色が、始終顔を曇らしているのは、遊び仲間と一緒に遊んだことがないからだと考えられた。そこで近所の子どもたちを多勢家に呼び込んでみたが、子どもたちは遠慮して部屋の隅に萎縮してしまうし、外では腕白に飛び回る子どもたちに怯えて佇んでいるばかりでうまくいかない。

そんな時、東京から居を移して田園生活をはじめた一家があった。一家には温和で愛らしい少女がいた。ある日、涼一が一人で丘へ遊びにきて休んでいる時、当の少女がやってきて声を掛けられるが、大切に育てられすぎて自己中心的になっていた涼一は「あっちへ行ってくれ、側に人が来るの嫌い!」と言い、少女は「何て厭な子でしょう」と言って怒って去ってしまう。4日後に同じ場所で再会した2人は会話するまでになるが、涼一は突然相手を知ろうと左手を少女の肩へかけ、右手で手や肩に触って、つるりと顔を撫でる。ほんの咄嗟の事であったが、少女は吃驚して薄気味悪くなり「厭な人、何だってそんな真似をするんです」と窘(たしな)める。そのことで涼一は初めて、不具の悲惨さが痛切に胸に響き、不具は人の同情を喚起しもするが、また怖がられるということも知るのである。

涼一は草の中へ倒れて激しく身悶えして泣く。丘を降りかけた少女は泣き声に驚いて振り返り、涼一が反省して泣いているのであろうと思って引き返す。少女は慰めるつもりで「私もう怒っちゃいない。その代わり、今みたいなことしないで…」と涼一を抱き起こす。夕日に向かって顔を上げた涼一の目は、美しい日の光に一層輝かしく見える。

「『――僕……僕盲(めくら)なんだ。』『盲目(めくら)なの?』…(略)『本当に盲目なの、まあ!』」

少女は哀れになって声をふるわせ、思わず涼一の頸を抱き締める。

このことがあって後、少女は涼一の良き友人となり、最も良き理解者となり、やがて生涯を支える伴侶となっていく。

この物語は盲目の主人公が東京音楽学校の楽堂で満場立錐の地もなく充ちた聴衆の拍手を浴びて、音楽家として功を収めるところで終わる。作品が発表されたのは1908年(明治41年)で今からちょうど百年前のことである。障害者への差別や蔑みの辛酸に出合うことなく、愛情に包まれて才能を伸ばし成功するまでの美しく優しい物語である。視覚を失った状態で生まれた少年が聴覚と触覚を頼りに、どのように見えない世界を認識し獲得していくか、その成長過程を叙述する作者の眼差しは温かく慈愛に満ちている。

当時の秋声の作品を文学史の立場からみると、硯友社時代の影響から離れて、自然主義作家として独自の作風を確立しつつあった時期にあたる。下積みの庶民の生活や、著者周辺の日常を切り取ったような作品を量産している同時期の作品群の中にあって『盲人』は他の作品にない異彩を放つ佳作という印象を与える。

しかし、その後筆者は『盲人』がロシアの作家ウラジミール・コロレンコの作品『盲目の音楽家』を下敷きにした所謂(いわゆる)、翻案物であることを知り、不意打ちをくらったような驚きと落胆とを禁じ得なかったのだった。原作は長編小説の体裁で物語をすすめているが、秋声の『盲人』は分量にして原作の5分の1に満たない。一気にエピローグへ持ち込んだ手法に不満が残る。しかし視点を変えて見れば、舞台を巧みに日本の風土に置き換えて主要部分を過不足なく描いていることや抒情豊かな表現は、やはり作家の手腕と言える。

古来、日本では、音への鋭敏な感覚と芸術的才能に恵まれた視覚障害者は数多くいたであろう。近年、邦楽では海外にまで名を知られた箏曲家兼作曲家の宮城道雄、また津軽三味線の高橋竹山などは多くの人々の知るところである。クラシック音楽で現在活躍中のピアニストを、物語に重ね合わせて思い浮かべる人がいるかもしれない。

原作者コロレンコ(1853―1921)は、作品について次のように語っている。

「私はこの習作で盲人の魂のドラマを跡づけようと試みた。心理的過程が純粋な形で現れるように(視覚欠除の悩みが付随的なモチーフによって煩雑化されないように)主人公の境遇を順調な環境の中に(略)置いた。……

素材としては、幼年時代を知っているある先天的盲目の少女の回想と、漸次失明した一少年および教養ある職業的音楽家の盲人を観察して得たところを用いた」

原作で「この子もやはり廃人なんだ。わしら2人を一つに合わせたら、やっと人間らしいのが一匹でき上がるかも知れん」というマキシム伯父が、エピローグで、「そうだ、彼は開眼したのだ。盲目の癒し難い利己的な悩みの代わりに、人々の悲しみと人々の喜びを感じている。彼は開眼した。……」と盲目の音楽家デビューの感動的な場面で物語を閉じているのは示唆的である。

この美しい感動的な物語が説得力を持つのは、視覚障害少年の成長過程の描き方が原作者の全くの空想の産物でなく、「心理学的」事実に基づいたものであるからだろうと思う。

(せきよしお フリーライター)

【参考文献】

◇秋声短編集『出産』明治42年・佐久良書房(東京世田谷区・日本近代文学館で閲覧)

◇『徳田秋声全集』第27巻・八木書店

◇ウラジミール・コロレンコ著(長谷川研三訳)『盲目の音楽家』1973年・古川書房

◇同時期の秋声の翻訳小説『目なし児』