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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年10月号

文学にみる障害者像

ヴェンセスラウ・デ・モラエス著 花野富蔵訳
「癩者」

清原工

やさしい雨が降っていた――。

私淑する川端康成に「幸い雨模様で今度は落ち着いた文章ができるのではないかしらと、今から楽しんで居ります」という手紙を書き送った北條民雄の故地を訪ねるのに、それは相応(ふさわ)しい日となった。徳島。10年前の秋のことだ。

北條は県南部の育ちだが、ハンセン病発病の宣告を、この県都の病院で受けている。東京府下の療養所から帰郷した折には、「傾城阿波鳴門」で知られる、阿波十郎兵衛屋敷を訪ねてもいる。70年以上も前のことだが。

「雨にしめり、生々と青みを増してきた苔や、ふつくらとやわらかみを浮せて来た地面」「頭から雨をかぶり、跣(はだし)になつて水溜りや浜辺を走り廻る」(「癩院受胎」)と記した作家が足跡を残したときと今と、むろん雨は同じだけれど、街の面貌はことごとく変わっていた。徳島は終戦のひと月ほど前、大空襲に見舞われ、戦後のこの街の復興は、かつての面影をすっかり消し去ってしまったから。

私は、北條が呼吸した徳島のよすがを求めて、その頃、「家並におおいかぶさるように一面草のビロードにおおわれ、松の影濃い美しい山がもったいぶった様子で聳えている」(『徳島の盆踊り』)という眼差しをこの街に向けていた、一人の文人外交官の記録をひも解いた。後に「徳島の小泉八雲」などと呼ばれることになる、ポルトガル出身のヴェンセスラウ・デ・モラエスは、当時、亡妻の郷里に隠棲していたのだ。

もっとも、モラエスのイメージの援用によって成った拙著(『吹雪と細雨』)で、「無理解ゆえに『ケトージン(毛唐人)』、あるいは『西洋乞食』と蔑称されていたほどであった。北條も、当時のモラエスの存在を、意識的に見ていたとは考えにくい」と私はことわっている。もとより、生前は相知らぬ同士の琴線を、70年以上経ってから共鳴させようという、無謀な書斎的遊戯ではあったのだ。それでも、私はこのことがあってから、モラエスその人への共感を専らとする、心のベクトルも意識するようになった。

59歳から75歳までの晩年を徳島で過ごし、この間に書かれた『おヨネとコハル』や『徳島の盆踊り』などの随筆で知られるモラエスは、1854年、ポルトガルの首都リスボンで生まれた。小学校に当たるコレジオ、中等教育機関のリセを卒業後、海軍兵学校に学び、当時、ポルトガル領だった、南部アフリカのモザンビークに、数次にわたって海軍士官として赴任している。その後の足跡は、アラビア半島のアデン、コロンボ、シンガポールやティモールなど、各地に記された。マカオには約10年赴任している。

モラエスは、1889年以来、マカオ港務副司令官として、数回の来日を重ねている。これから触れることになる、『極東遊記』所収の「日本の追慕」などを読めばわかるように、モラエスの日本への愛着は、この時期にいつしか深まっていったのだろう。かくして彼は、本国への帰任が命じられた1898年、これに抗(さから)って日本に定住してしまったのだった。

ポストは後から追認するように与えられたらしいのだが、神戸大阪ポルトガル国領事館臨時事務取扱、翌99年には、正式に同領事に任ぜられているから、モラエスは軍人から外交官へと転じたことになる。以来、1913年まで15年間、その職責を全うした後、亡妻ヨネの郷里だった徳島に退き、没後は、彼が「松の影濃い美しい山」と呼んだ眉山(びざん)の麓の寺に葬られ、今もそこに眠っている。

モラエスは、経済的な事情から、身近な軍人への道(彼の母マリア・アマリア・デ・フイゲイレド・モラエスが、軍人の娘だった)を選びはしたが、元来その性向は、むしろ夢想的文学青年のそれであったといわれる。それで、彼の文名が世に知られた最初の出来事は、マカオ港務副司令官だった1895年に、リスボンで『極東遊記』(Tracos do Extremo Oriente)が出版されたことだったろう。

『極東遊記』は、モラエスが、ア・ダ・シルヴァという筆名で、『コレイヨ・ダ・マニャン』紙上に連載した「支那遊記」に、「盤谷(バンコク)にて」と「日本の追慕」を加えて、一冊にまとめられたものである。

今、私の手元には、1941年、中央公論社から出た、花野富蔵訳の『極東遊記』があるが、この本の「南支追憶」の中の一篇「癩者(らいしゃ)」は、モラエスのマカオ港務局時代の体験であり、「冷酷なまでにリアリスティックな描写を残している」(岡村多希子『モラエスの旅 ポルトガル文人外交官の生涯』)。それは、北條と相知らぬ同士だったモラエスの琴線が奏でた、19世紀末のハンセン病者の姿として、慄然とさせられる。今日の認識から振り返って、この小篇の記述はあまりにも不適切な点が多々認められるが、それゆえに検証すべきものと寛恕を願い、以下に概略を記す。

モラエスは5月のある暑い朝、マカオ植民地が住居と食糧を提供していた癩者の療養所に出掛ける。なぜなら、「かなり以前から、ぼくは自分をその恐ろしい悲惨に近寄らせようとする感情のある病的な好奇心に煽られて、その癩の巣窟を見学に行かうと考へてゐた」からだ。そして、彼の認識によれば、「あらゆる悲惨事の豊饒な生簀であるこの広大な支那、極東には、泥濘の泥土に汚れた穢い棲息の結果、今なほ癩菌が繁殖してゐる」といい、「遺伝の厳然たる鉄則の方でも、この遺産を次ぎ次ぎに継承して、丁寧にもその責苦を曳きずつて往きそれを倍加して往かうとするのだ」と、記していることには心が凍る。

ノルウェーのアルマウェル・ハンセンが、らい菌を発見したのは1873年だから、「癩菌が繁殖」といいながら、「遺伝の厳然たる鉄則」という謬見(びゅうけん)には、感染症であることを本当に知らなかったのか、という疑問も残る。後半で「病気を感染しようとの憎々しい考へ」という記述が出てくるから、やはり彼が知らなかったはずはなかろう。いやたとえ、彼がそれを知っていたとしても、感染と遺伝という矛盾する差別や偏見が、重層的に築かれていった日本のハンセン病問題を想起すれば、モラエスの態度は、もとより科学的なそれではないのだろう。

モラエスは、「遺伝の厳然たる鉄則」の件の後で、中国――彼の知見はマカオやその周辺の南部に限定されると思うが――の、ハンセン病者集住地の形成について、興味深い証言をしている。

「あれは癩者だと村民が指摘すると、恰も狂犬病のやうに逐つ払ふ。かくて、癩者は常に背後から追ひたてられ村落から村落へと逃げて往き、洪水の汚物のやうに、ひとりでに河へ流し込まれることとなる。そのとき、大きい避難所、天然の静穏な平和――彼を護ってくれる、容易に手に入る23枚の板子と水――が眼前に展開する。だから、支那の癩者はたいてい漁人である、といふよりも運河と河川との悲しい流浪人である。支那の風光の単調な水彩画――水路が果てしなくうねつてゐる稲田、バナナの樹の羅列、竹藪で縁取した茂み、それに沿うて重なりあった禿山と、その上の模糊とした灰色の空――には23人の癩者の隠遁所で収容所である23艘の悲惨な小舟があたりに浮遊してゐないところはどんな小さな村にもない」のだと。

モラエスが訪ねた過路環(コロワン)島の女性患者の療養所では、「澳門(マカオ)から来て、その腐肉を抱き、接吻せんばかりに親切に世話をして、満足と愛情とを与へるカノシヤナ派の尼僧たち」がいると記しているが、その後段では「猛獣のやうに幽閉され軽蔑と嫌忌とを宣告されてゐるそれらの腐乱した体には、敢て基督教とはいはない、ちよつとした信仰心さへも発生し得まい」と、これまた冷酷に断じている。この徹底した非情の根拠は、まったくわからないのだけれど。

男性患者のほうは、白沙蘭(パクサラン)という谷間に住んでいたと記しているが、モラエスは、この二つの療養所が、「全支那に於けるこの種の唯一の設備であると思ふ」という。ただし、最後の段落にいたって「ぼくが訪ねたその二つの療養所はもう幾年もまへになくなつた」と書かれているから、この文章は回想記ということになるのだろう。そして、この段落の後段「今では癩者は、ジプシイの群団のやうに」以下の描写の引用は控える。その、ハンセン病患者に対する人間性の冒瀆(ぼうとく)ぶりは、さすがに目にあまるので。

「徳島の小泉八雲」に愛着を持つ私は、『極東遊記』に収められた「癩者」を、どう受け入れるべきか、正直、当惑してしまうのだ。ひいきの人情としては、むしろ封印してしまいたいほどだが、それはするまいと思う。極東の「水彩画」の点景を、美しくも醜くもクローズアップすることは、やはり文学的所為なのだ。負の文学的遺産と向き合う覚悟を決め、今回、あえて紹介することにした。

(きよはらたくみ フリーライター)