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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年11月号

文学にみる障害者像

粟津キヨ著『光に向かって咲け』
盲女子全員の向上を願う斎藤百合の生涯

菊地澄子

昭和61年6月、斎藤百合の生涯を書いた『光に向かって咲け』という新書が、岩波書店から出版された。本書は、毎日出版文化賞、山川菊栄賞、青山なお賞と、一度に3つもの賞を受賞した作品である。

著者は「粟津(あわづ)キヨ」という盲女子で、彼女が点字で書いたのを、友達がカナタイプに起こし、それをさらに普通文字の原稿に。そしてキヨの思いが損なわれず表現できているかどうか、音読してキヨに耳で確認してもらう。このように大勢の協力で、粟津キヨの第一稿から5年かかって、脱稿。そして『光に向かって咲け』が出版されたのである。

盲目の粟津キヨが一生かかっても「書き残したかった」という斎藤百合の生涯とは?

野口小つる(斎藤百合の結婚前の名前)は、明治24年3月31日、岐阜の旅廻りの浪曲師の両親の元に生まれた。

小つるは3歳の時、麻疹(はしか)にかかって失明。当時、日本は日清戦争の勝利に湧き、次の戦争へと士気を鼓舞する風潮があり、戦争に役立つ強者や軍人がもてはやされ、障害者や病人などの弱者は、人間の価値がないかのように思われた時代であった。

裕福な家に生まれた盲女子は自力で稼ぐ必要がないので、一生、家の中にかくまわれ、人目にふれずに人生を終えるのが、当時は当たり前と思われていた。しかし、自分で稼がなければならない盲女子は、按摩(あんま)か瞽女(ごぜ)(三味線を弾き、歌をうたって物乞いをする芸人)か、寺や神社で死者の霊と話す“巫女(みこ)”になるしか生きる途(みち)はなかった。

按摩になり、人の身体を揉(も)めるようになった盲女子は、杖をついて夜の町を流して歩く。呼び止められると、その家の寝室に敷かれた夜具の上で、時には旅館の部屋で、時には酒に酔った男の身体も揉まなければならない。無理矢理セックスを迫られて、どこのだれだかわからない客の子を妊娠してしまう悲劇は珍しいことではなかった。

世間の人々は、いつの間にか「おんな按摩」というだけで、蔑(さげす)みの眼差しを向けた。男性の盲人の中には、鍼(はり)、按摩の治療院を開業し、繁盛している人もいたが、社会的地位の低い盲女子には、とても叶わぬ夢だった。

当時、一般の女子教育は「良妻賢母」が目標であったが、盲女子は良妻賢母どころか結婚はできない者、してはいけない者とされていたのである。

旅廻りの両親は、盲目の小つるを連れ歩いていたが、10歳の時、岐阜の訓盲院の森院長に預けた。両親の元を離れた小つるだが、森家の家族のように暮らし、自由奔放で、何にでも積極的にチャレンジした。オルガンを習い、本を読んでもらい、森院長が英語の教師なので英語も習った。

こうして17歳になった小つるは、訓盲院を卒業し、訓盲院の代用教員として働いた。小つるは人に本を読んでもらい、それを懸命に点字に直す(点訳)。見える人が本を読むのと同じ速さで点字を打つのだ。『賛美歌』やヘレン・ケラーの『わが生涯』などの点訳は、英語や楽譜があり、点字を打つのが大変難しいのに、根気強くやりとげた。

3年間代用教員を勤めた小つるは、訓盲院の派遣生として、東京盲学校(現筑波大附属視覚特別支援学校)に入学することになった。そこの入学生は9人。うち女子は2人。みな全国から選ばれたエリートばかりだった。

小つるは図書館が開くと、毎日まっ先にとびこんで、むさぼるように本を読んだ。図書館の本にも教科書にも「盲女子の結婚は好ましくない」と書いてある。でも、小つるは「私は一般の女性と同じように結婚をし、子どもを産んで育てていきたい」と思うのだ。

小つるは、2学年下の斎藤武弥という弱視の学生と親しく付き合うようになった。小つるは卒業後、2年間母校の教員を勤めた後、上京して斎藤武弥と結婚した。結婚を契機に名前も「斎藤百合」と改め、豊島区雑司が谷に小さな家を借りて新生活を始めた。

幸せいっぱいのある日、初めての出産を2か月後に控えた百合が銭湯へ向かっていると、「按摩さん、お腹の子だれの子だえ?どこで拾ったんだ?」と、すれ違う男が熱い息を吐いて言った。百合は心臓が止まりそうになった。軽蔑された盲女子のわが身が、たまらなく悲しく、悔しくてならなかった。

百合は、帰宅した武弥に泣きながら訴えた。「盲女子全体の社会的地位を高めなければ。そのために自分たちは何をすべきか」を、夫婦は夜を徹して話し合った。武弥は毎朝、ルーペを使って新聞を百合に読み聞かせた。ある日の新聞に、東京女子大学設立記事を見つけた。「キリスト教精神により女性を一人の人間として伸ばす高等教育を行う」と書いてある。百合は早速入学試験を受けて合格した。

日本初の盲女子大生となった百合は、ますます勉学に励んだ。ロシアの盲目の詩人エロシェンコや作家の秋田雨雀たちも、百合の家に来て朗読奉仕をした。深津文雄(後に館山に“かにた婦人の村”設立)は、学生時代から、百合の目となって沢山(たくさん)の本を朗読した。斎藤家はいつも学校のようだった。

女子大に入学した1年後、長女が2歳の時、百合は長男を出産。しかし半年後に病死。その身代わりのように翌年、次女美知を出産し、3年後に次男武彦を出産。百合は堂々と産み、サポートを受けながら母親の役割をこなし、勉学の幅をますます広げていった。

ところが大正12年9月1日、関東大震災が起こり、建物の瓦礫が散らばり、道はズタズタ。盲目の百合は通学できず、後もう少しで卒業なのに、退学せざるを得なかった。震災から4年後の昭和2年春、百合は三女美和を出産。そして昭和10年の暮れ、百合は遂に盲女子教育を行う仕事にとりかかった。

東京盲学校の正門近くに27坪の借家を借り、この家を若い盲女子の生活訓練の場に、働く場に、地方から上京してきた人の宿舎にもするのだ。入り口には「陽光会ホーム」と、真新しい看板を掲げた。そして、武弥が友達と発行していた「点字倶楽部」(点字月刊雑誌)を「陽光会」の活動の一つとして引き受けた。点字倶楽部は陽光会を支える大切な情報伝達の役割を果たし、部数が伸びるにつれて陽光会の活動も活発になった。

北海道出身の盲青年、本間一夫(後に点字図書館設立)は、点字倶楽部の愛読者で、大学を卒業後、陽光会で点字倶楽部編集長を引き受けて百合を助けた。百合の東京女子大時代の先生や同窓生たちが中心になり、陽光会の後援会が発足した。陽光会ホームでは、点字倶楽部の他にも沢山の点字本を発行したり、身の上相談に応じたり、按摩の資格試験の指導や編み物、調理、裁縫、コーラスなどを行った。

昭和12年の春、点字倶楽部に「盲女子高等学園」の生徒募集を掲載した。その資金集めのために、宮城道雄の琴の演奏とヘレン・ケラーの講演会を開催することになった。百合は、ケラーの「歓迎委員会」や外務省や通訳依頼などに奔走し、『講演と音楽の夕べ』の開催にこぎつけた。しかし当日の朝、歓迎委員会に呼び出された百合は、収益をすべて寄付するように迫られたのである。この年の7月に日中戦争が始まり、盲女子教育のことより軍資金への寄付の方が、はるかに価値があり、必要なのだと強く命じられたのだ。結果的にこれまでの支援者たちを裏切る結果になってしまい、学園長にと考えていた青年も、他の若い協力者たちも次々と「陽光会」から遠ざかっていった。

秋頃になって、高等学園の入学希望者5人がホームに入ってきた。中に1人だけ盲学校卒業で17歳の金井キヨ(粟津キヨの旧姓)という子がいた。キヨは、希望に胸膨らませて上京したのに、事情を聞いてガッカリしていた。

キヨと同年齢の長女の久美はキヨと散歩したり、外出の時は自分の洋服を貸したり、親身になって世話をした。キヨは、久美のやさしさにほだされて、陽光会ホームの助手をしながら勉強に励むようになった。そして、昭和18年春にキヨは、東京女子大学に入学できた。しかし、太平洋戦争が激化し、1年半で中断せざるを得なくなった。

昭和19年に入ると、東京の人々は空襲を逃れて田舎へと疎開していった。斎藤家の家族も今はバラバラで、長女久美は結婚して長野県で医者をしている。次女美知も結婚して夫の国朝鮮へ渡った。立教大学の学生の武彦は出兵して沖縄にいる。末娘の美和も久美の元へ疎開中である。百合は、身寄りのない陽光会ホームの寮生4人を連れて、静岡に疎開。百合はここで息子の武彦が沖縄で戦死したことを知らされた。悲嘆にくれている百合に、今度は武弥が東京駅で事故死したという知らせ。東京へ駆けつけ、火葬を済ませた直後、日本は敗戦となった。

それから2年後の正月、百合は風邪をこじらせて肺炎を併発、末娘の美和に見守られて静かに息を引き取った。

金井キヨはその後、百合の意志を継ぎ、結婚し「粟津キヨ」となり、子どもを育てながら、新潟県立高田盲学校の教師として働き、『光に向かって咲け─斎藤百合の生涯─』を著した。

(きくちすみこ 児童文学作家、「障がいと本の研究会」代表)