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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年12月号

障害者と裁判員裁判の課題

金岡繁裕

はじめに

平成21年5月21日からの実施が予定されている裁判員裁判は、一般人が職業裁判官とともに裁判体を構成し判断を行うため、裁判の進み方・証拠の取り調べ方・法廷での関係当事者の立ち居振る舞い、そういったものについても大きな変化をもたらすことが予想されている。

本稿では、障害者が裁判員となる・あるいは刑事被告人となるという場合に現れるであろう変化、問題点について考えてみたい。机を前にして浮かぶ程度の問題点ですら、論議が不十分であることに改めて気付かされる。

障害者が裁判員となる場合

1.裁判員として審理・評議に参加し、判決を下すだけの十分な情報が得られるか

障害者が裁判員となる場合、最も直面する問題は情報伝達の問題と考えられる。

(1)「法廷で見聞きして分かる裁判」

裁判は、証拠によって事実を認定するという作業が必要である。ここで証拠とは、包丁のような証拠物、供述調書という心境や行動、目撃内容等を説明した文書、写真や防犯ビデオといった記録媒体、法廷で得られる証言など、多岐にわたる。

裁判員裁判では、裁判員の負担を極力減らすため、こういった証拠類、特に証拠の大部分を占める文書について、各裁判員に配布して読んでもらうということは想定していない。「法廷で見聞きして分かる裁判」が、裁判所の目指す方向性であり、文書は聞き手に分かるように全文朗読する形でのみ内容を知ることができるようになるとの見通しである。

聴覚障害者にとってみると、文書である証拠は文書をそのまま読むのが一番確実な情報伝達と言えるが、以上のような方向性から、原則として文書を読むことは認められず、すべてを手話通訳に依存することになる。読み上げられた内容を直(じか)に聞く他の裁判員との間に情報差が生じるのではないか。

また、視覚障害者にとってみると、いわゆる「ビジュアル・エイド」を駆使し、法廷で見たことから判決できるようにする方向性は、やはり逆に情報差を生じさせるだろう。来るべき裁判員裁判が情報を視覚化することを志向している点は重要な問題をはらむ。

(2)法廷プレゼンテーションの重視

「法廷で見聞きして分かる裁判」は、弁護人や検察官の法廷活動にも変革をもたらす。従来であれば書面の読み上げがほとんどであったものが、裁判員裁判に備えては、「できるだけ書面は配布しない」「配布するとしても簡略な骨子にとどめる」「裁判員に対し適切な身振り手振り、声の抑揚などを駆使して説得的な弁舌を振るう」といったことが重要視される傾向がある。

裁判員の持つ障害と相容れない法廷活動が一般化した場合、弁護人や検察官は、裁判員に障害者が加わることを良しとするか疑問である。

(3)障害者への情報伝達という手続保障

情報伝達の問題を考えると、さらに、裁判員となる障害者へ手話通訳や点訳がどれほど保障されるかは定かでない。

たとえば供述調書を法廷で読み上げる場合、法廷で聞くことによって判断材料とすることが予定されているため、基本的に点訳の配慮はないだろう。

また、裁判員裁判は裁判員の負担を減らすため、法律上、連日的・集中的に行うことが予定されている。そのような負担に耐えられるだけの手話通訳者をどうやって確保するのかは全く未解決である。

(4)障害が判断権者としての職務遂行の支障となる場合

以上とはやや次元を異にする問題として、裁判員の欠格条項の問題がある。周知の通り、「心身の故障のために裁判員の職務に著しい支障のある人」は裁判員になれない。裁判は証拠により事実を認定するという作業を不可避に伴うため、障害故に証拠を十分に検討できない場合は、欠格条項を理由に裁判員になれない可能性があるわけである。

この点、最高裁判所の説明としては、障害があるというだけで欠格条項に該当するとはしないが、事案の性質上、当該障害がないことが不可欠になってくる場合も有り得るとされ、たとえば写真に写っている人物が被告人かどうかが主要な争点である場合、視覚障害があるなら裁判員にはなれない可能性があるということになる。

一つには、ぎりぎりまで障害に配慮して職務遂行の可能性を探り、どうしてもという場合にだけ欠格条項が発動されるという謙抑的な運用が真になされるのか、という疑問がある(それは、だれが、いつ、どうやって判断するのか)。

また、逆に、主要な争点と関係がない証拠なら全部を十分に見られなくてもよいのかという方向からの疑問もある。適正な手続による裁判を受けるという刑事被告人の権利保障の要請と衝突が生じ、訴訟当事者から裁判員から外すよう要求が出たり、理由なき不選任の対象となったりすることも想定される。

2.肢体不自由の場合

障害者が裁判員に加わる場合、たとえば車いすでの移動が可能かというような前提問題も検討しておかなければならない。

この点、特に裁判員裁判が行われる法廷は広く、車いすの通れるような通路を確保して設計されているようである。裁判員裁判が行われる全法廷、評議が行われる部屋、裁判所建物の入り口からの全移動経路など、バリアフリーが徹底されなければならないのはもちろんであり、外部からの検証・問題点の公表が望まれる。

障害者が刑事被告人となる場合

1.問題の所在

障害者が刑事被告人である場合に、刑事被告人の権利保障に見合うだけの情報伝達が行われるかといった問題は、適正手続や訴訟能力の問題として古くから議論がされており、裁判員裁判になることで新たに生じる問題はあまり想定していない。

今、最も深刻なのは、連日的・集中的な審理が優先される結果、障害に対する理解や配慮が疎(おろそ)かなままに裁判が終わってしまうのではないかという問題、さらに、職業裁判官に素人の裁判員が加わることで障害に対する理解をいかに得ればよいのかが見えてこないという問題点であろう。

2.拙速な裁判への懸念

(1)すでに述べたとおり、裁判員裁判は、極力短期間で終えられるよう方向付けられている。そのため、たとえば審理が始まると新しく鑑定を行うことは避けたい、複数の精神鑑定を行い混乱を招くことは避けたい、などということが言われている。

こうなると、審理が始まって初めて精神障害やその他の障害のような特殊な問題に向き合うことになる裁判員が、事の本質を十分に理解できるだけの時間が確保されるかが心配になる。また、ある裁判員が新しい疑問点を持ち出した場合に、その疑問点が解消されるよう審理を(当初の予定を大幅に変更して)丁寧に行うだろうか。

(2)精神障害や発達障害、そのことが事件とどう関わっているか等という問題は、ただでさえ難解であり、専門家の間ですら、しばしば見解が分かれる。そのような問題に対し、「法廷で見聞きして分かる裁判」を実現するため問題を単純化し、短期間の審理で判決に行ってしまうことも、同様の危険をもたらすだろう。

3.障害に対する理解をいかに得るか

通り魔事件のような耳目を集める事件の報道を見ていると、精神障害を理由に無罪を主張することが非難されているように感じる時がある。精神障害を理由に無罪とし得る責任能力制度に対し批判的な文献も多い。

私のような法律家は、現在の刑法が「人格責任論」という立場から理解されており、その人の人格に基づき犯罪を行う場合にのみ責任を問うことができる、という考え方を当たり前のように受け容れてきているが、一般の人が裁判員となった時に、そのような考え方を理解できるか・理解できたとして納得できるのかは、危ういものを感じる(法曹三者が全国で試行している模擬裁判を見ていても、その思いを強くする)。

病気を理由にした責任逃れだという意識、被害者への同情が優ること、事が専門的な知識を要する(障害に対する理解の点でも、責任能力制度への理解の点でも)ことまで含めて考えると、この危険性を解消する方策は直ちに見出せない。

終わりに

以上、現時点で問題点として認識され始めているところを大まかに述べてみた。

裁判員制度は予定通り実施される見込であるが、こういった問題点に対する議論が、あまりに乏しいことを自覚しなければならない。

(かなおかしげひろ 弁護士)