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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年12月号

文学にみる障害者像

ギュンター・グラス著『ブリキの太鼓』
―太鼓によって語られる「過去」

杉山雅彦

『ブリキの太鼓』は1959年に発表された、ギュンター・グラスの処女作である。1927年、ダンツィヒ(現在のポーランド領ダグニスク)に誕生した作者の自伝的要素が強く、後の『猫と鼠』、『犬の年』と合わせて「ダンツィヒ3部作」と呼称されている。ダンツィヒは、第一次世界大戦以後、ドイツから分離され、国際連盟の管轄下にあった国際都市であり、ロシア人、ドイツ人、ポーランド人、そしてさまざまな少数民族の混在する自由都市であった。

グラスはドイツ人の父と少数民族の一つ、カシューブ人の母を持ち、親戚にはポーランド人が多かった。この生い立ちは主人公オスカル・マツェラートにそのまま踏襲されている。発表当時には、人物造形、難解な構成、性を含むグロテスクな描写などの要素から、ドイツの文壇では否定的な見解が多かったが、その後見直され、海外における評価が高まるとともに、1999年のノーベル文学賞受賞後は、グラスの文学的な出発点として、さまざまな側面から分析されている。

2006年の回顧録『玉ねぎをむきながら』において、S・S(ナチ武装親衛隊)の少年兵であったという過去を告白したことによって、自身の政治的姿勢が改めて問い直されてはいるが、その側面からのみの評価は、この作品の全体性と本質を見失う危険性を伴うことは言うまでもなかろう。

主人公オスカルは作品の現在において、精神病院に入院中の30歳の患者として登場する。そこで看護人を相手として、自分の過去を語るという形式で物語は進行する。この形式において大きな鍵となるのが、「ブリキの太鼓」なのである。

第二次世界大戦に向かいつつある不穏な時代に「精神の発育が誕生の時にすでに完成してしまった耳ざとい嬰児」として誕生した彼は、一種の先天的異能者として位置づけられている。大人の会話はすべて理解し、そこから自分に関する利害を計算し、抜け目なく立ち回るオスカルが忌避しているのは、成長して父の職業である小売業を継ぐこと(大人になること)であり、希求しているのは、「胎児の頭位に帰ること」(子どものままでいること)である。大人になることは、必然的に暗い現実と直面することであり、自己の存在を脅かすことである。

それに対する抵抗として「決して食料品屋にはならない、むしろ現状のままとどまろうと決めた」彼は、父親の「オスカルが三つになったらブリキの太鼓を買ってやろう」という言葉を唯一の希望とし、3歳までは順調に成長する。そして、ブリキの太鼓を手に入れた3歳の誕生日に、故意に店の地下室へと下りる階段からコンクリートの床の上に転落する。この事故をその後の成長停止の原因と偽装することに成功したオスカルは、その後「永遠に3歳のブリキの太鼓奏者」として生きていくこととなるのである。この、精神的に何らかの欠損を抱える子どもが自己防衛のために大人になることを拒否する、というモチーフは現代にもリンクする普遍性があり、この作品の評価を高めている要因であろう。

異能者としてのオスカルは、太鼓とともに「大声を上げると、どんな高価なものでも粉々になってしまう」能力を手に入れる。この力は太鼓を奪われるという危機に、無意識の防衛規制の形で初めて発現し、当初は「正当防衛」としてのみ発揮されるのであるが、やがて、自分の行動を阻害する存在への意識的な抵抗、自分の忌避する存在への意図的な暴力へと変質し、ガラス窓を初めとし、花瓶や時計、果ては建造物の一部すら破壊の対象とする「破壊する仕事」へとエスカレートしていく。

画一的な学校の授業、退廃した教会、そしてナチスによって右傾化していく社会。それらの破壊は、自己防衛のための抵抗という形は取りつつ、激動する時代への精一杯の示威行為であったと言えるかもしれない。そのような過去の自分自身に対し、現在のオスカルは、その言動に潜む偽善性を指摘するとともに「子どもの立場を利用して」いたに過ぎないと、その擬態の欺瞞性を批判する。3歳児という仮面を付けた偽善者である過去の自分自身を相対化しつつ、現在の自分が何者かということを模索しているのである。

オスカルが14歳の時に、彼の奇行によって精神を病んだ母親は、過食症に陥って亡くなる。この時には「小人が太鼓を叩いて彼女を墓場へ連れて行った」などと誇張し、その責任について自覚的でなかった彼も、やがて母の喪失は太鼓を買い与えてくれる存在、すなわち自分を庇護してくれた存在の喪失であることに気付かされ、愕然とすることとなる。その代替えとしての伯父(推定上の父親)、父親(現実の父親)が、相次いでオスカルの言動が遠因となって命を落とし、すべての庇護者を失った時、彼は21歳にして初めて現実に直面せざるを得なくなる。

ぼくはなすべきか、なさざるべきか?おまえは21歳なのだ。オスカルよ。おまえは孤児なのだ。おまえはやはりなすべきだ おまえの可哀そうな母がいなくなってから、おまえは、もう半分は孤児であった、あのころすでに、おまえは決心すべきだったのだろう。

「ぼくはなすべきだ!」と決心したオスカルは、太鼓を半分埋葬されつつあった父親の棺の上に投げ捨てる。その瞬間、彼は烈しい鼻血とともに「成長を始めた」のである。自己の内面性を防衛するために、自分の意志によって成長を止めたオスカルは、自己の外面的な防衛手段を喪失して初めてシェルターとしての「ブリキの太鼓」と決別し、第二次世界大戦後の現実へと出ていこうとする。その時彼は、「これからは大人としての新生活を始められるという期待を抱いて」いた、と現在のオスカルは回想する。

戦後、オスカルは故郷ダンツィヒを離れ、忌避していた父親と同じ職業ともいうべき闇商売から出発し、その後、石工、美術学校のモデルと職業を替えた後、ジャズバンドのドラマーとして華々しく脚光を浴びることとなる。成長するとともにガラスを破壊する声は失ってしまっていたが、「ブリキの太鼓」に、それを叩くことによって、観客たちの幼少時の記憶を喚起するという新たな機能を見出したのである。この成功によって彼は再び「ブリキの太鼓叩きのオスカル」に戻っていく。自分の意志で再び成長を開始し、「大人としての新生活」に向かって歩み始めたはずの彼の戦後は虚構でしかなかったのだ。

その偽りの生活の中、殺人事件に巻き込まれ、その容疑者として逮捕されるも、精神障害と診断され精神病院に入院させられる。そこで彼は自分自身の幼少時からの記憶、過去を「毎日3時間から4時間ぼくのブリキの太鼓に語らせ」ることとなるのである。身体的には成長を遂げても精神的には何一つ変わっていない、「ブリキの太鼓」に依存する「永遠の3歳児」としてのオスカル。そんな彼が何より恐れているのは、この安寧の生活が破られることである。最終章では殺人事件の真犯人が逮捕され、裁判が再開されるという知らせが届けられ、その恐怖が現実のものとして迫ってくる。

今日ぼくは30歳になった。そしていよいよ、裁判の再審が始まり、どうせ無罪釈放となって街頭に放りだされ、列車や市電の中であの歌の文句をつきつけられることになるのだ。黒い料理女はいるかい?いるいる!

最終章に頻出する、この「黒い料理女」とはいったい何者であろうか?

それはオスカルがその誕生以来抱き続けてきた「現実」に対する存在不安に他ならない。戦争に傾斜つつある少年時代は、まさに彼の存在を根源的に脅かす暗黒の時代であった。しかしそこからの解放であったはずの戦後になっても、その恐怖の影は色濃く残っている。そのような戦後に対する問題提起とともにグラスの文学は出発し、そして現在も続いているのである。

その意味において『ブリキの太鼓』という作品は、マイノリティーの血統を持ち、生まれ故郷を喪失してしまったグラスにとって、戦争という暴力により少年期に精神的な深い傷を負った自分自身の内面性を相対化し、自己存在の意味を問うとともに、欠損による空虚感からの恢復を希求する物語として極めて重要な意義を持つとともに、現代社会にも通じる普遍性を獲得しているのである。

(すぎやままさひこ 学校法人麻布学園)