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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年1月号

座談会
障害者の政治参加

八代英太(前衆議院議員)
青木学(新潟市議会議員)
斎藤まこと(名古屋市議会議員)
小寺きしこ(愛知県知多郡武豊町議会議員)
司会・藤井克徳(日本障害者協議会常務理事、本誌編集委員)
(順不同)

なぜ政治に参加したのか

藤井 あけましておめでとうございます。障害のある人たちの権利はいろいろな角度からとらえられなければなりませんが、中でも重要なものの一つに政治に参加する権利があげられます。

本日は、障害がありながら国政、地方議会の議員として活躍している方、活躍してきた方にお集まりいただき、「障害者と政治参加」について語り合っていただきたいと思います。

最初に、自己紹介を兼ねながら、議員になろうとした動機についてお話しいただけますか。

「車いすを国会へ」

八代 私は1973年に舞台から転落して、脊髄損傷で車いすの生活になりました。それまでは政治にも福祉にも無関心で、世の中は自分中心に回っているような錯覚の中で生きていたのですが、その時から第二の人生が始まりました。

車いすに乗ってみて、こんなに便利でこんなに不便なものはないと知るに及んで、仲間たちと話すうちに、最後は政治が解決しなければ方法がないと気づいた時に、政治は暮らしのすべてであると同時に、福祉のすべてなのだと痛感しました。

そこで、1977年に「車いすを国会へ」というスローガンで、参議院全国区に挑戦しました。なぜそのスローガンにしたかというと、国会に傍聴の申し込みをしましたら、当時は車いすでは傍聴できなかったのです。その現実に、当事者が車いすを国会に入れなければダメだ、舞台で落ちてけがをしたのだから、選挙で落ちるぐらいは大して痛くはないだろうと、車いすになったことをチャンスにして、チャレンジしてチェンジしようと決断しました。

全国で選挙運動をしていくと、車いすでがんばってきた仲間たちがいかに大変な思いをしていたかという社会の現実を感じて、国政の中でやりたいという思いがわいてきました。「やしろ」だから、84万6千票ぐらいほしいと思っていたら、84万票をいただき、神様が第二の人生の試練をくださったのだと思って、責任も重く感じました。その後、国会議事堂や各省庁などに車いすが入れるようになり、車いすの国会議員が誕生すると変わっていくことを実感しました。

参議院3期18年、衆議院3期10年、合計28年、車いすを通して政治を見つめ、福祉をライフワークとしてきました。選挙で落選したのは、お前に用はなくなったという天のお裁きだったという気もしますが、以来3年、大学で授業をしながら、福祉の語り部のようなことをしています。

まちづくりへの関わりから町会議員に

小寺 私も22年前に交通事故で首の骨を折って、車いすの生活になりました。今後どう生活していこうかと考えた時、目標は親の力を借りずに自立をすることでした。その思いは今も変わっていません。

自立を求めるには就職をしたいと日本福祉大学に入学しましたが、たまたま主人と出会い、子どもに恵まれて、10年間は子育てに専念しました。その後、自分の人生を考えて行動をはじめると、いろいろな方と出会うチャンスがあり、出会った方々に導かれて今があるという気がしています。

受傷から12年経った時、愛知県で「人にやさしい街づくり条例」ができ、町の新しい建物などがどんどん変わってきました。法律が変わると町が変わってきて暮らしやすくなる、法律は自分の生活と直結しているという実感がありました。

その後、「人にやさしい街づくり連続講座」を受講したことがきっかけで、いろいろな方に出会いながら、町の仕組みや人の動きなどを学びました。それまでは自分のことをよくしてほしいとか、自分がしてほしいことを発信することがおこがましいと思っていたのですが、自分がきちんと伝えていくと町が変わっていく原動力になることを感じて、「人にやさしい街づくり」に関わりながら、10年間過ごしてきました。

町の施設、「ゆめたろうプラザ」が建設される時、みんなが使いやすい建物にしてほしいと委員会で意見を述べました。その席に、議員さんとかいろいろな方がお見えになっていて、それまで政治を意識したことはなかったのですが、6年前の統一地方選挙の時にお声がかかりました。

ちょうど障害者支援費制度が始まる時で、ピアカウンセラーをしていましたが、現場でがんばっている私たちの声がなかなか政治に反映されないと思っていましたので、政治を動かしていくことが世の中を大きく変えていく原動力になると感じて飛び出しました。

アメリカ留学で「社会」への働きかけを意識

青木 私は1966年生まれで、小学校6年生の時に網膜色素変性症で視力が落ちて、中学に入るころには全盲になりました。中学・高校と新潟盲学校に通い、その後は盲学校の外に出る道を選ぼうと1年間、京都の盲学校で浪人をして、京都外語大に入学しました。

当時、視覚障害者が一般大学を受験する時は、点字受験を認めているかどうかがポイントでした。その中から自分が進みたい大学を選んでいくことは極めて狭い選択肢でしたが、点字受験をさせてくれること自体がありがたいと感じていました。

大学入学後は、ボランティアの方に点訳などをしてもらいましたが、目が見えないことは一つの欠陥だと思っていましたから、見える人に近づくことで一人前の人間として認められるのだと思っていました。

その後、アメリカに留学して、考え方が180度変わりました。「目が見えないあなたが、この大学で自分の目標を達成するにはどういうサポートがあればいいのですか」と聞かれて、点訳が必要、教科書をテープに録音してほしい、図書館に本を探しに行く時サポートが必要だと要求しますと、すぐ手配してくれました。その対応は大きなショックでした。

また、他の障害者の人たちと日本にいる時はほとんど会う機会がありませんでしたが、キャンパスの中で車いすの人は当たり前に学んでいたし、重度の脳性マヒの人も学生がサポートについて学んでいました。そういう実体験の中で、それまでの障害のとらえ方が狭かったと思い知らされました。

さまざまな障害をもっている人たちといわゆる健常者が同じ場で生活する環境を作っていくことは可能だし、そのための必要なサポートをするのが社会だと、初めて「目が見えないこと」と社会とを結びつけて考えられるようになりました。

目の見えない一人の人間として生きていこうとした時、何が壁なのかに視点が向くようになり、社会に対して疑問に思うことは、当事者が自分の言葉で周りに語っていかなければいけないと気づきました。

その思いを胸に日本に帰ってきて、国際交流の分野で仕事をしたいと思いましたが、すべてシャットアウトでした。人権感覚のなさにぶちあたって、この壁を打ち崩していきたいと思い、また新潟で出会った頚椎損傷の人がワープロ受験を認められないという話を目の当たりにして、私だけの問題ではないと思いました。

活動に参加していた障害者グループのメンバーから市議会選挙に立候補したらという話があり、迷いましたが、悔しい思いを政治の場に少しでも反映させることによって、社会を変えることに力を尽くせるのであればと決意しました。

障害者運動から政治の世界へ

斎藤 私は1960年生まれで、3歳の時に脊髄に腫瘍ができて、下半身がマヒしました。当時三重県には養護学校が1校しかなく、小学校・中学校は病院に併設する施設で過ごし、通信制の高校、そして名古屋の大学に進みました。卒業後も就職せずにフリーターのような状態でいる時に、障害のある人もない人も共に地域の中で働き生活していこうと活動している「わっぱの会」の活動に関わるようになって、そこで働くようになりました。

議員になった明確なきっかけはないのですが、障害者運動で知っていた堀利和さんが1989年に参議院議員に当選して、各地で障害者に議員にならないかと働きかけていたことが一つあります。

また80年代半ばごろ、名古屋市のある駅舎改造の新聞記事を見て、当然エレベーターが付くのだろうと思って、どんなエレベーターがどこに付くかと市役所に聞きに行ったら、エレベーターは付かないと言われました。「付けてほしい」と要望しても、鉄道事業者と市役所の間で堂々巡りをします。そこで駅前で署名活動を行うと、すぐたくさんの署名が集まりましたが、エレベーターを付けることはできませんでした。

その経験を通して、新聞報道で知った時はすでに遅い、もっと前の段階で意見を言わないと話にならないと実感したことと、政治の場でやってみるのもおもしろいのではという周りの意見もあって、1990年の補欠選挙に出て、政令指定都市では初めて、車いすの議員として当選することができました。その後、落選したり当選したりで、今に至っています。

議員活動―障害があった故に困難だったこと・当事者だからできたこと

藤井 議員としての活動を通して、障害がある故に困難だったことと、障害があるが故にできたことをお話しください。

急な資料の内容把握は困難

青木 困難であることは、視覚障害ですので、他の議員と同じような形で資料の内容を瞬時に把握できないことです。当初から議案や予算書などは点字で用意してくれますし、最近はいろいろな資料をデータでもらえるので、パソコンですぐ読めるとか、情報の格差はかなり縮まってきていると思いますが、委員会の審議の途中でこの資料が必要となった時はその場で出てくるので、内容を瞬時に確認して議論することにはハンディがあります。そこが、今困難なところです。

当事者だからできたことは、議場内での議長選挙、委員長選挙は点字で投票できるようになりましたし、10年かかりましたが、新潟市の職員採用試験は昨年度から点字受験ができるようになりました。

また、身体、知的、精神のさまざまな障害者のみなさんとの広いネットワークを作りながら活動をして、問題提起ができたこともありますし、私自身がサービス利用者ですから、障害福祉サービスのこの辺が不備ではないか、この辺に問題があるのではないかなど、実体験の中から提案して改善できたと思います。

藤井 視覚障害者には情報障害と共に移動障害がありますが、議場との往復や議員活動としての視察などにはどう対処されていますか。

青木 役所内は1人で問題なく移動できますし、議場の行き帰りは同じ会派のメンバーが一緒に移動してくれます。議会内は、私が提起をして会派の部屋やトイレの表示は点字の整備がされましたので、問題ありません。視察や出張は同じ会派の議員や事務局がサポートについてくれます。外に出る時はガイドヘルパーを使っています。

選挙運動が大変です

斎藤 議員になったことで庁舎の改造が進んだので、仕事をする分について困難なことは特にないのですが、選挙運動は大変で、個々の家を訪問するのは難しいです。地域のことに細かく取り組んでいこうとすると、バリアフリーになっているお宅は少ないので、大変なことは多いです。

障害当事者だからできたことは、たとえば支援費制度が始まる時、1年ぐらい前からいろいろな障害者団体の人を集めて、当局との交渉を繰り返しました。当時名古屋市は、1日の介助派遣は7時間が上限でしたが、24時間でなければダメだと話し合いをして、支援費の始まる前の早い段階で約束させることができました。

移動支援の使い方も制度設計をしていく議論をしました。議員の中では、障害者関連の制度については一番知識があると思いますし、きちんと議論ができますので、細かいことを確認しながら制度を作ることができました。

障害者自立支援法の問題も継続していきますが、行政当局も議員にはきちんと対応してくれますし、障害者団体の人ともいろいろなネットワークを作って、場を設定できます。

藤井 議員であるが故に正確な情報を早く入手できたり、制度をつくっていく時のタイミング、つぼを生かすことができたということですね。

ダイレクトなメッセージを発信できることに意義

小寺 私も、議員として障害があって困ったというよりも、議員であり市民であると思っていて、市民が政治に参加することがとても大切だと思っていますから、その辺で困難だと感じたことがあります。

みなさんが困っていることがあるにもかかわらず、自分の問題を世間に知らせていくとか、伝えていくことに躊躇される方が多いんです。市民が政治に参加する、届けることを切り開いていくことの難しさを実感していますが、それは私の大切な役目だと感じています。

当事者だからできたことは、議員さんや理事者たちと一緒に行動することが多いので、具体的に何が困るのかを実感していただける機会があることです。実体験ができる、直接知らせることができる、ダイレクトなメッセージを発信できることは、私が議会にいる意味があると思っています。

当初はバリアフリーをという言葉を議会で何度も発信してきた気がするのですが、最近は私が言わなくても、周りの議員さんからバリアフリーの言葉が普通に出てくる環境になっていますので、議員になってよかったと認識しています。

藤井 他の議員に偏見を感じたことはありませんでしたか。

小寺 私が鈍感なのかもしれませんが、障害があるからとか、女性だからということで差別とか、偏見と感じたことはありません。知らないだけということが多いので、常日ごろから偏見と思うのではなく相手を変えるチャンスだととらえています。

障害関連の法律を制定・見直し

藤井 八代さんは車いすの国会議員第1号として、政治参加の歴史を拓いてきたと思いますが、当初と今とを比べていかがですか。

八代 国の政治は大木の幹にあたりますから、幹に一つ一つ見出しを作って、都道府県、市区町村に行き渡っていき、向こう三軒両隣の地域福祉に持っていかなければいけない。当初は厚生省がこうやるというと、北海道から沖縄まで同じようなことをしていたのですが、地方自治体で地域福祉を考えていく時代を作っていこうというのが、最初からの私の大きな願いでした。今日お集まりの方々がそれを実践しているのはうれしいことで、障害者議員がもっと増えていくことを願っています。

1977年に国会へ入って国会議事堂を変えた、各役所を変えた、ノーマライゼーションの理念を発表した、いろいろな地域福祉を提唱した、障害者基本法も作った、問題点はあるにしても、障害者自立支援法に至るまでのプロセスの中で、ほとんどの障害者関連に関する法律を見直してきました。

藤井さんたちに文句を言われつつ、一つ一つの問題を解決してきたつもりですが、それでもまだ中途半端で、検証していくと問題点はあります。思い残すことがあるのが、次へのチャレンジになっているのかと思いますが、絶えずチャレンジ精神を持っていきたいと思っています。

藤井 国会議員としての活動で何か困ったことはありましたか。

八代 私の前半の国会活動は、政治家に理解を求め、役所に理解を深めさせていくことだった気がします。私が議員でなくなると、階段昇降機に油をささなくなるし、トイレは物置になるし、永田町に私がいなくなって、多くの職員はホッとしているのではないでしょうか。ホッとさせてはいけない。行政マンをリハビリテーションして、理解してもらうことが重要です。

議員活動は、車いすだから許されることはないわけで、それなりのエネルギーも必要でしたが、議員になって困難なことはほとんどありませんでした。声は大きいし、やたら動きまわるし、がんがんしゃべるし、障害者のくせにと思われていたかどうかは分かりませんが、憎まれるぐらいやることが大事だと思います。

他の議員と対等に渡り合えないと、障害者に政治は無理だと言われかねない。そう思われないためにも目いっぱい動きまわろうと思っていました。そこに喜びも楽しさもあるし、国の政治の中で一つ一つ作っていくプロセスの中で、多くの仲間の意見を吸収できました。そういう意味では、28年間で思い残すことはない気がするのです。

思い出に残っていること

藤井 これまでの活動の中で、思い出に残っていることを一つあげていただけますか。

障害があっても地域の学校へ行きたい

小寺 どんな障害がある子でも地域の学校に通いたいという願いがある。そのために必要な特別支援員を求める声が多かったため、2007年9月にお母さん方と一緒に請願をしました。

国の教育の流れが変わってきて、地方もきちんと受け止めなければならない時でしたので、建物が整っていないという理由だけで地域の学校に入学できないのは不利益だと感じて、これから生まれてくるすべての子どもたちに関わる問題だからとみなさんと話し合いをしました。国の制度として特別支援員の配置がうたわれましたが、その子たちが地域の学校に行けるように、うちの町でも施策としてうたってほしいと思いました。

子どもさんの障害を公開していない方もみえましたが、その親たちも協力しながら、人口4万2千人の町で1か月足らずに9千人の署名を集めて議会に提出し、初めて紹介議員として議会で説明しましたが、否決されました。それは痛い経験でしたが、真剣な町民と出会えたのはとてもいい経験になりました。

結果的に、就学指導委員会で受け止めていただき、4月からアシスタントの増員により支援の必要な子にもアシスタントの配置がされ、安心して地域の学校に通えるようになったのは大きな成果だったと思います。

「障害者基本法」は大きな財産

八代 私の思い出は、障害者基本法です。私なりの解釈をすれば、障害者の憲法のような思いで作ったのですが、5年前に改正をして、その中に差別禁止を組み込んで、それを引き水にしながら、差別禁止法が次の大きな宿題だと思って、大改正をしてきました。

その中で特に地域福祉を考えますと、市区町村が必ず、毎年、障害者基本計画を策定するように、そして策定の際には、障害をもった当事者、専門家が必ず立案者のメンバーに入らなければならないとなりました。

駅などを作る場合は、必ず当事者が参加するようにするとか、障害をもった当事者の知恵やノウハウを地域で使って、障害者が自分たちの町や村をどう作っていくかという地域福祉が柱になっています。障害者基本法の枝葉として障害者自立支援法があり、それぞれの福祉法がぶらさがっていますから、障害者基本法を作ったことが私の大きな財産のような気がいたします。

私は、障害者の人生を考えると何よりも教育が大事だという思いを持っています。統合教育が私の気持ちですが、統合教育に持っていくことはできませんでした。いろいろな障害児者の教育が残された課題だと思います。障害者基本法は、これからあらゆる法律を生んでいく呼び水になっているのではないかという思いは強く持っています。

委員長として責任を果たす

青木 思い出に残っていることは、いろいろな事業の達成もありますが、初めて立候補した時、目の見えない者に議員活動ができるのかという話が出ていたと後で聞きました。議会に入ってからも、悪気があるのではないのですが、「一人で歩けるんですね」とか、素朴な疑問が出てきました。

新潟市議会は、2期目には各委員会の委員長になるという慣習があるのですが、私が2期目になった時、「青木にできるのか」という声が出たそうで、同じ会派の人が「同じ議員なのに、そういうことを言うのはおかしい」と発言して、委員長に就きました。2000年のことです。

委員会の議事は、事務局がシナリオを作り、読んでもらって、私が点字で書き取って頭に入れていましたから、事務局とポイントを毎回確認しながら準備をしました。

委員長の任期中に採択の方法を変えることになり、私の委員会ではスムーズに採択ができましたが、他の委員会では、どこが変更になったか、委員に十分説明できなくて、混乱をしたと聞きました。

あとで議運委員長が、事務局に「なぜ青木の委員会だけスムーズに行ったのか」と聞いたので、「事前に準備をしていたからではないですか」と説明したそうですが、これが逆だったら、だから障害者はダメだと私の委員長生命も終わったでしょう。こういうことを通して、信頼というか評価につながっていったと思います。視覚障害であってもきちんと準備をして、スムーズにできたことをしっかり見てもらいたいと思いました。

精神障害者の医療費助成を改善

斎藤 よかったのは、昨年から名古屋市は、政令指定都市で初めて精神障害者の医療費助成を2級まで拡大したことです。今までは、身体障害者、知的障害者は重度、中度まで医療費が助成されていましたが、精神障害者は重度しか助成がありませんでした。

通院公費負担も何とかしてほしいし、医療費も何とかしてほしい。両方実現するには財源の問題もあるので、まずは医療費の拡大を優先して要求してはどうかと、そして精神障害者団体の方に議会への働きかけを丁寧に行うようにアドバイスをして取り組みをされた結果、昨年8月から医療費助成の拡大が実現しました。

今、力を入れていること・関心のあること

藤井 今、力を入れていることをお話しいただけますか。

入院中の介助、住宅施策の充実を

斎藤 現在進行形で取り組んでいることは、入院中の介助の問題です。支援費制度で介助の支給量が増えたことで自立する障害者がものすごく増えました。結果として、重度の一人暮らしをする障害者などが病院に入院する機会も増えるのですが、完全看護との関係で介助を派遣してもらうことは簡単ではありません。医療制度と支援費制度の縦割りという国の制度の問題が原因なのです。

あるALSの人が入院すると介助者が来なくてかえってしんどいからと、入院しないという選択をして、その結果、命を落としていくという例もあるんです。看護師の看護だけではまったく対応できないからと、入院せずに命を落とされる。筋ジスの方も似たようなことがあります。こんな不幸な選択をしなくて済むように何とかしたいと、障害者の側に利用しやすい制度設計に取り組んでいます。

長期的なことでは、住宅問題です。私の場合、電話相談の半分近くが市営住宅に入れてくれないかという要望です。公開で抽選しているので、議員の口利きはできませんと答えるのですが、精神障害者の方からも、病院を出たい、親が高齢なので市営住宅に入りたいという電話がよくかかってきます。

多くの障害者が住むところに困っているのは明らかですが、その辺の解決は自治体でもできるところがありますから、何回か質問をしてきました。長期的な住宅マスタープランを策定させる中で施策を具体化できないかと考えています。

学校教育の中で障害への理解を深めたい

小寺 私は一貫して変わっていないのですが、社会全体にどういう形で障害への理解を広めていくかが大きなテーマだと思っています。近々の課題としては、学校教育の問題です。学校教育の中で障害のある方々は何が困るのかをきちんと理解することによって、解決方法に結びつけていきたいと思っています。

障害への理解というところでの社会に発信していくことでは、障害者差別禁止法とか「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」とか、愛知県でもそういう動きが見え隠れするのですが、とても大切な問題だと思います。条例ができればいいというのではなく、社会に住んでいる一人ひとりが、何が問題なのかをきちんと知ることが大事だと思います。

知らなかったからごめんなさいではなくて、知らないことは罪だと理解していただいた上で、何が困るのかを社会の問題としてすべての人たちが共有していければ、一人ひとりが大切にされる社会になっていくと思いますので、その部分を一生懸命にやっていきたいと思います。

藤井 実現していくための秘策はありますか。

小寺 条例を作るという最終目標はあると思っていますが、一気に条例にするのではなく、障害のある方もない方も県民あげて同じテーブルについて、何が問題なのかを話し合える場を設けていきたいですね。議員だけが政治に関わるのではなく、市民を巻き込んで施策を作っていく、政治に参加していただくことをいろいろな機会をとらえて作っていきたいと思います。

「権利条約」の理念を地域で

青木 小寺さんの話と関連がありますが、障害者権利条約の批准を国に求めていくことと、千葉県の条例と岩手県にも同じような動きがあるということで、新潟市でも本格的にプッシュする時期にきているのではないかと、9月議会で取り上げました。

何が差別かの定義がないので、いろいろな場面でなかなかかみ合わないんですが、私としては、新潟市としての理念をきちんと示すべき時期ではないかと取り上げたところ、重要な課題なので幅広く議論を進めていくという方向が出されました。

政令指定都市になってから、障害者施策推進協議会を立ち上げましたが、ここにテーマの一つとしてあげていくことを検討しています。近々、幅広い議論が生まれていく状況を作っていきたいと思います。議会でいきなり差別禁止条例というと抵抗が強いと思ったので、障害者の権利と差別の禁止を盛り込んだ仮称「障害者基本条例」の制定と提起しました。これから名称についても深めていきたいと思います。

また障害者にとって、IT、パソコンは大きな役割を果たしていると思います。新潟県も新潟市も障害者雇用率はワーストのほうなので、国の施策のITサポートセンター事業は都道府県レベルですが、ぜひ市レベルでやりたいと協議をして、今年度ITサポートセンター事業を立ち上げることができました。パソコンを習得しながら、就労にも結び付けていけるように充実させていきたいと思います。

自立支援法の行方を見据えながら

八代 私自身が関わりを持った障害者に関する法律の行く末はどうなっていくのか、育てるという思いと見届けたいという思いで見つめています。

今年は障害者自立支援法が施行から3年経ちますので、見直し規定で大改正になると思います。障害者自立支援法は、それぞれの地方自治体が大きなイニシアチブを持っているわけですから、地方自治体がやりやすいように、またそこで暮らす障害者が本当にうまく利用できるようにするために、これからの国会の議論に関心を持っています。

中身が複雑で、所得保障も中途半端になった悔しさが残っていますので、何とか側面から応援をしたい。知り合いの議員がたくさんいますので、引き続きハッパをかけながら、真の障害者自立支援法にしていきたいと思います。

国連の権利条約も、今年は日本が批准することになって、国内法との整合性をどう担保するか、国会でどういった議論が行われるだろうか。そういう時に障害者が運動として国政にどう働きかけていくかはたいへん重要だと思っています。

お三方の地域における政治の話を聞いて、国から名古屋市や新潟市、武豊町に下ろすという政策ではなくて、地方から国に上がっていくというようなボトムアップ方式の障害者施策であってほしいと思います。

障害者差別禁止法も視野に入る時代になってきました。障害があろうとなかろうと、人間として尊厳のある社会をつくらなければと思います。私も千葉県の差別禁止条例成立のためには、反対していた、自民党の県会議員一人ひとりに手紙を書きました。未理解な議員が多いと思いますので、未理解のまま我々を見つめていくことを変えていかなければならない時代だと思います。

日本の障害者の数は7、800万と言われています。全国には障害者の議員が300人くらいいると思いますが、地方議会の10%弱くらいは入ってほしいと思います。国会には今一人もいません。障害者に無関心な政治が行われてしまうことが心配ですので、地方議会で声を上げていただきたい。我々の仲間に声を掛け合って、障害者自身が政治に参加する機会がもっと増えていくことが大事です。私もがんばっていきます。

障害者と選挙制度の課題

藤井 参政権の入り口でもある投票制度を含む選挙権についても課題がたくさんありますが、この点についてはいかがでしょう。

八代 私が当選したころは、障害者の不在者投票は郵便投票でした。どこかで不正に使ったことが問題になって中止されましたが、一票の行使は国民の主権ですから、復活したという経緯があります。

障害者が行きやすいように投票所を1階にする。点字投票、車いすで書ける記載台、代理投票とか、政見放送に手話を入れるとか、国民のかけがえのない権利である投票は重要であるとずっと訴えてきました。

斎藤 愛知県障害者フォーラムから愛知県選挙管理委員会に公開質問状を出しています。国の選管で行うべきことと地方の選管でできることを整理した上で、手話通訳、選挙公報、テレビの政見放送とか、それぞれの自治体での取り組みをしっかりしていくことが必要だと思います。

投票所への距離の問題もあります。中には遠いところもありますので、経費の問題もありますが、できるだけ小さい範囲に投票所を設置していくこともできたらと思っています。

小寺 行政がやるべきことと、住民が意識を持たなければいけないことがあると思います。うちの町では選挙公報が発行されています。知的障害の方は、自分から投票に行こうという意思を持つことが難しいところがありますが、前回の地方選挙の時に支援者の方々が「投票に行きましよう」と選挙公報を見せて、期日前投票で役場にきて、「初めて投票に行きました」とすごくいい笑顔をしていたのが印象的でした。

本人の意思で投票に行けない方もたくさんいます。その方々の票を無効にするのではなく、きちんと権利を行使するために、それぞれがどういう形で役割を担えるかが大切だと思いました。

青木 視覚障害者の立場からは、国政でも地方選挙でも選挙公報が点訳されたり、音声で伝えられる形になっていません。

知的障害者の相談を受けましたが、自分の意思で文字を書けたり、代理という形で名前を言える方は可能だと思いますが、自分の意思を表明できない方は投票できないんです。認知症の方もそうですが、こういう方たちの一票をどう考えるかが、これから議論しなければと思っています。

斎藤 成年後見人を利用している人は投票できないというのは問題なので、何らかの制度改正が必要だと思います。一方で、字は書けなくて、自分の意思をうまく言えない人もいますが、市の職員が柔軟に対応して投票をしている例もあります。投票という選択行為を正確に判断したかという問題がありますので、議論をしなければならないことはあると思いますが、重度の知的障害者も投票行為にみんなと一緒に参加していくことが重要だと思います。参加することでみんなと同じなんだという意識を持つことができると思うので、重度の知的障害者の人たちも投票にどんどん参加したほうがいいと思っています。

藤井 投票は自己決定の象徴的な形態ですが、一方で施設や病院での期日前投票で不正が少なくありません。投票権の保障を前提に、どのような方法が望ましいのか引き続き検討が必要かと思います。

2009年の抱負

藤井 今年は、障害者自立支援法の3年後見直しや障害者基本法の5年後見直しが予定されています。加えて、障害者権利条約の批准への動きも活発になりそうです。重量感に満ちたテーマが目白押しの今年ですが、大切な年の抱負をお聞かせください。

地域の課題解決に挑戦

青木 国の障害施策に関わる法律も見直しの時期にきていますので、国の動きをしっかり踏まえながら、自治体も財政難と言われていますが、サービス水準を下げないように取り組んでいきたいと思います。

障害者基本条例(仮称)やITサポートに関わる雇用の問題をどう具体化していくかがあります。また、新潟市はCOの排出量が政令指定都市の中では一番多いので、温暖化対策室を設置させたり、温暖化防止のための地域協議会を設立することができましたが、温暖化問題の解消には公共交通が大きな役割を果たすと思います。

新潟でも超低床バスを走らせる運動を10年前にして、ノンステップバスがかなり導入されつつありますが、障害をもった人を含めて公共交通の利便性をどう高めていくかが大きな課題になっています。そういった視点でしっかり取り組んでいきたいと思います。

市民と活動する場を広げたい

小寺 私は今までと変わらず、議員でありつつ市民であると思っていますので、みなさんと一緒に活動する場をたくさん広げていきたいと思っています。またみなさんにどんどん政治に参加をしていただきたいという思いがあるので、私がみなさんの中に入りつつ、みなさんも議会、政治に参加していただく機会をどんどん増やしていきたいと思います。

そのためには、議会改革が一番大きな鍵だと思っています。請願をしたことがありましたが、うちの議会では本会議場での請願の趣旨説明がまだないので、みなさんからあがってくる陳情や請願の取り扱いが低いということがあります。そういったところを、みなさんと一緒に変えていくことが必要だと思っています。

藤井 政治参加、議会への関心は、一般市民からは遠い世界ですが、何か呼びかけていますか。

小寺 みなさんと話せる場を月1回つくっていますので、自分たちの声をきちんと出す必要があることをみなさんに受け止めてもらう、個人の問題ではなく、みんなの問題だと共有することによって、自分の問題を発信していただき、まちが変わると感じてもらえたらと思います。そういった活動を続けていきたいと思っています。

環境問題、外国人問題にも取り組む

斎藤 青木さんが環境の問題を言われていましたが、障害者福祉の枠組みをどう広げていくのかという視点で取り組みたいと思います。

私も障害者のことを中心に活動をしていますが、たとえば環境の問題で河川の上下流の交流の取り組みもしています。上流の過疎地域にも障害者はいると思いますが、名古屋の状況とは相当の格差があるのではないかと思います。そういう地域の人たちと大都市がうまく連携して、障害者が生きやすい状況ができるような取り組みができないかということを考えたりします。

それと愛知県はブラジル人も多いのですが、そういう方の中にも障害者はいるわけで、社会的に少数者と言われる外国人の問題の中にもしっかり障害者の課題を取り入れるように取り組んでいけたらと考えています。

変化の年に活躍を期して

八代 今年は72歳の干支です。車いすの人生が36年、健康な人生が36年、ちょうど半々になります。非常に重要な年だと思っています。政治が混迷していますが、政治が混迷することは、福祉も混迷することですから、我々がどう自立に向かっていくか。障害者自立支援法の改正、障害者基本法の改正、障害者差別禁止法の上程、国連の障害者権利条約の批准の審議など、今年1年は「障害者イヤー」という言い方もできると思います。

オバマさんが大統領になったアメリカをみても、世の中は大きく変わりつつあります。日本も、福祉を含めて政治も変わりつつある中で、障害者が幸せな社会は国民みんなが幸せな社会であるという万人のための21世紀をつくりあげられるように、側面的になるか中心的に動けるようになるか分かりませんが、元気猛牛で頑張っていきたいと思います。

藤井 経済は一流、政治は三流、日本のことをこんなふうに揶揄されることがありますが、障害のある人たちの政治参加や議会参加は、政治を一流に引き上げていくためのバロメーターになるのではないでしょうか。障害者権利条約でも、第29条(政治的及び公的活動への参加)で、「障害者に対して政治的権利を保障し、及び他の者と平等にこの権利を享受する機会を保障するものとし……」と明記されています。

今年は障害分野にとっても政治との関係が深くなりますが、この国全体からみても政治の年になりそうです。みなさん方のますますのご活躍を期待しながら、座談会を終わりたいと思います。

本日はありがとうございました。