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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年1月号

文学にみる障害者像

心病む人たちの芸術活動
『破片のきらめき―心の杖として鏡として―』

荒井裕樹

『破片のきらめき―心の杖として鏡として―』(監督・高橋愼二)は、東京都八王子市にある精神病院(平川病院)の中で、95年から営まれている造形教室の活動を記録したドキュメンタリー映画である。この映画は60分の短編作品として製作され「文化庁映画賞優秀映画賞」(05年度)を受賞し、その後80分版に整えられ、「第14回ヴズール国際アジア映画祭」(仏・08年)でドキュメンタリー部門最優秀作品賞を受賞した。

造形教室を主宰する安彦講平は、1967年から約40年にわたり、精神病院の中で心を病む人たちと共に歩んできた。その理念は近年よく目にする「芸術療法」や「アートセラピー」とは異なり、「参加者が主体的にアトリエに集い、外から与えられたり指導されたりするのではなく、身を持った自由な自己表現を通じて自らを“癒し”、また支えていく営み」を大切にしたものである。映画はこの造形教室を舞台に、心病む人たちが芸術を生きる支えとし、安彦と共に歩んだ10年間の営みを映し出す(なお安彦の造形教室は平川病院以外にも、東京足立病院〔足立区・67年~現在〕、丘の上病院〔八王子市・70~95年〕、袋田病院〔茨城県久慈郡・01年~〕でも営まれている)。

優れたドキュメンタリーは、無限の世界を切り取って有限のフィルムに完結させるものではなく、むしろ有限のフィルムを通して、切り取り得ない無限の世界への関心を掻(か)き立てるものである(たとえば土本典昭のフィルムが水俣の無限の苦難を伝え、彼の地に対する人々の心を掻き立てたように)。『破片のきらめき』は現在も各地で自主上映中なので、詳細な内容紹介は慎まなければならないのであるが、不都合のないと思われる範囲で概略を示し、このフィルムに掻き立てられた筆者自身の思いを綴ろう。

20代で発症して以来、何度も入退院を繰り返してきた男性は、かつて鍵と鉄格子に固められた保護室へ強制収容された辛い体験を描いている。絵具を幾重にもキャンバスに叩きつけ、鉄格子の向こうにあるはずの光へと身体ごとぶつかっていくかのようなその作品は、観るものの網膜を切り裂かんばかりの迫力を感じさせる。

どんな些細なことでも確認せずにはいられない強迫症状に苦しむ男性は、はじめ色彩豊かなパステル画を描いていたが、ある日を境に自分の苦しい症状を描き始めた。「宿痾(しゅくあ)シリーズ」と題された一連の作品は、陰鬱な色彩と内容のために重く息苦しい印象さえ受けるが、しかし本人は症状を絵にしてしまうことで、薄紙を剥(は)ぐように病苦が軽減しつつあるという。

強迫性障害をもつ女性は、吊革やドアノブなどを不潔と感じて手袋をはずすことができないが、造形教室にいる時だけは素手でコラージュ(千切り絵)を造ることができる。コラージュは雑誌の広告やグラビアなど、すでに完成して自立した世界を切り取り・集め・再配置する画法である。それは白紙(つまり零(ゼロ))から画家独自の世界を創り上げていく他の画法と異なり、既成の世界を画家が組み替えていく作業である。彼女の小さな体から生み出されるコラージュは、この閉塞感に満ちた社会を解体する彼女自身の天地創造である。

30年以上に及ぶ入院生活に人生を諦めかけていた70代の男性は、造形教室と出会うことで生きる希望を取り戻し、絵が社会的に評価されるか否かは度外視して、描くことが自分の役割であると決意する。彼が描く幾何学的な文様は、人類の数千年に及ぶ進歩の歴史を遡(さかのぼ)り、人間がまだ〈原形〉のまま生きていたであろう太古のアニミズム的世界を蘇(よみがえ)らせるかのようである。

アトリエの先輩たちのように上手く描けないことに悩む男性は、鬱症状での入院から復帰した後、自宅で再生の証しともいうべき作品を描き上げてくる。しかし、ゴッホの色彩にルオーの描画法を合わせたような独特で愛らしいその絵の背後にも、彼の暗く陰鬱な気持ちが張り付いているのだという。

100号を越えるキャンバスを乗せたイーゼルが立ち並び、スクリーンからも油絵具の匂いが伝わってきそうなアトリエは、一瞬そこが病院内であることを忘れさせ、美術大学の一室にいるのではないかと錯覚するほど異様な光景である。筆者は研究のために医療機関や福祉施設を訪れることが多いが、財政の効率化とリスクマネジメントばかりが求められ、患者や利用者ばかりでなく職員からも窒息感が漂う時世にあって、かくも自由で創造的な空間が残されていることを目の当たりにし、正直驚きを禁じ得ない。ただしこの場が決してユートピアなどではなく、病院・造形教室スタッフ・参加者たちの語り尽くせぬ有形/無形の努力によって支えられている、かけがえのない特別な場であることには留意しておきたい。人間は功利性や合理性を追求して疾走するばかりでは生きてはいけず、よそ見したり立ち止まったりと、非功利で不合理な部分も併せ持ってこそ窒息せずに生きていける。造形教室のように〈息つく場〉を営む良識の火が、この社会の中に灯り続けることを心から願う。

この映画を見ていると、そこに映し出される人々のことは、「患者」ではなく「病む者」と呼ぶ方が相応(ふさわ)しいように思えてくる。「病む」ことと「患者になる」ことは異なる。「患者になる」とは、一過的に医療や医学にわが身の管理を委ねることである。そこでは治療によって病気を除去することが最終目標とされ、自力で病気に対応することは慎むべき事柄とされる。対して「病む」とは、病気を自分の一部分と認めて継続的に共生していくことである。それは主体的に苦しみと向き合うことでもあり、生きることそのものが最終目標とされる。おそらく両者は共に必要なことであり、バランスよく併せ備えてこそ、この苛酷な現代を生き抜いていけるのだろう。

なお安彦自身は、度々“癒し”という言葉に触れている。“癒し”とは人が自らの苦しみと向き合い、表現を通じて外部へと放出することで生きる支えを見出していく営みであるという。また人が自らを“癒し”ていく営みは、そこに寄り添い共に歩む人をも“癒し”ていくのであり、自分という殻の内/外を越えて波及する作用でもあるという。

医療技術の発展は、治療し得る病気の幅を格段に広げた一方、人々が病気と主体的に向き合う機会を狭め、病気と生きるための内面的な成熟を顧みてこなかったのではないか。造形教室で描かれた作品からは、自分の心を医療の管理に任せ切ってしまうのではなく、その苦しみや痛みも含めて、自分自身の一部分としていとおしみたいという願いが読み取れるように思える。

なお『破片のきらめき』は、第1回「心のアート展 生命からのこもれ日―無形の営み、有形の結実―」(【主催】東京都精神科病院協会 【日時】09年2月24日〔火〕~26日〔木〕 【場所】東京芸術劇場〔池袋〕)でも上映される予定である。この絵画展では安彦が主宰する造形教室の他にも、都内の精神科病院で芸術活動に取り組む人たちの作品も多数出展される。いずれも苛酷な現実を生き抜くための真摯な“癒し”の試みであり、声なき声を伝える力作である。併せてご覧いただきたい。

(あらいゆうき 東京大学博士課程、日本学術振興会特別研究員)