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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年6月号

フォーラム2009

ルイ・ブライユ生誕200年を迎えて

田中徹二

6点式点字の開発

世界の100数十か国で使用されている6点式点字を考案したルイ・ブライユが生まれたのは、1809年1月4日である。ブライユは、パリから40kmほど離れたクープレーという小村に、馬具職人だった父の下に生まれた。3歳で失明し、10歳で世界最古のパリ盲学校に入学するまで、地元の小学校で学んでいた。優秀な生徒だったようで、アルファベットの形も覚えていたようである。記念館になっている生家には、父が板に小さな釘を打ちつけた点線のアルファベットが残っている。

盲学校に入学した彼は、盲人用文字として使えないかと持ち込まれた12点点字に興味を持ち、早速改良して指になじみやすい6点点字を考案した。12点点字が発音記号を表したものだったのに対し、彼の6点はアルファベットの文字を記号化したもので、この着想は、彼が文字になじんでいたことを示している。16歳のときには、現在のアルファベット体系を作り上げ、盲学校の生徒の間で使われ始めた。しかし、一般のアルファベットの形とあまりにも異なる点字記号は、盲学校でもなかなか受け入れられず、フランス国家が盲人の文字として正式に認めたのは、ブライユが亡くなった2年後、1854年のことである。

ユネスコ本部で国際点字会議

今年の1月4日には、パリで記念行事が行われた。午前中は、彼が卒業し、その後教師として勤めた国立盲学校のチャペルで、各国代表を含む200人ほどが集まり、追悼ミサが催された。午後は、フランスの偉人たちが祀られているパンテオンで、彼の業績を讃える講演と、生花を供える儀式が、一般の入場者を締め出して開かれた。

生花を供えたのは、世界盲人連合(WBU)のマリアン・ダイアモンド会長だ。ブライユの遺骨が納められている部屋の前には胸像も置かれ、「Louis Braille 1809~1852」という点字プレートが貼られていた。それぞれの部屋には、3体の遺骨が納められているが、ブライユと並びの部屋には、エミール・ゾラ、ビクトール・ユーゴー、デュマといった大文豪の遺骨が安置されており、まさにフランスが誇りにする偉人たちの墓所である。ブライユがここに祀られたのは、彼の死後100年目の1952年のことであった。

そして夜は、ノートルダム大聖堂で追悼オルガン・リサイタル。一般にも開放されたので、1千人を超える聴衆を前に、厳かな演奏がジャン・ピエール・ルゲーの手によって行われた。地理や歴史といった一般科目のほかに、ピアノ、チェロを教え、日曜には教会でオルガンを弾いていたブライユを偲ぶのにふさわしい演奏会だった。

記念国際会議は、5日から7日まで、日本からは指田忠司氏(日本盲人会連合国際委員)と私が招聘された。5日は、開会式に続いて、「ルイ・ブライユとその時代」について、今回の会議の実質的責任者の一人、バランタン・アウイ協会のフランソワーズ・ルシーヌ事務総長や、2006年に「ルイ・ブライユ ― 天才の手法」を著し、ブライユの普通文字の手紙などを詳しく紹介したニューヨーク在住のマイケル・メラー氏などが話をした。

会議の中で、私は「日本語の点字」、指田氏は「日本における点字投票と点字選挙広報」について紹介した。最終日の8日は、午前中に盲学校を訪れ、「ルイ・ブライユの生涯と仕事」という特別企画展を見て、午後にはクープレーの記念館を訪ねた。

フランス王家の通訳をしていたバランタン・アウイが盲学校を作ったのは1784年、フランス革命の5年前である。その後、アウイは外国に出て、ドイツやロシアの盲学校建設にも協力した。

新しい盲学校がパリのアンバリッドに建設され、移転したのが1843年。石作りの堂々たる建物は166年経た現在でも健在で、ブライユが26歳で肺結核を発病し、43歳で亡くなったときに、寝ていた保健室は現存している。

日本語点字への翻案

このフランス語点字はやがて欧州から世界へ広がっていく。日本では、英語点字の文献と点字器を取り寄せ、生徒に試させたのが、当時官立東京盲学校の校長だった小西信八だ。彼は、英語のアルファベットを用いて、生徒が点字をすらすら読み書きするのを見て、その有用性を確信した。そこで同校の教師や生徒に日本語点字に翻案することを勧めたのである。それに応えて、現在の日本語点字の基礎を考案したのが、同校教師だった石川倉次だ。彼の生年が1859年で、今年奇しくも生誕150年になるのは不思議な因縁である。石川案は、4回の検討委員会を経て、1890年11月1日に採択された。この11月1日が、わが国の点字制定記念日になっているが、日本の国字として点字が官報に掲載されたのは1902年である。ブライユと石川の生年が50年違うように、両国が点字を正式に認めたのもほぼ50年の差ということになる。

点字離れの議論

こうした歴史を持つ点字が、近年、視覚障害者の間であまり重要視されなくなりつつあるという課題が指摘されている。「点字離れ」ということばで代表されているが、もしそうだとすれば由々しき問題である。幼少からの視覚障害者が減り、中途失明者が増えているのも一因だろうが、点字は自分で読み書きできる唯一の文字である。点字によって正確な情報を手にすることこそが、視覚障害者の自立した生活を支えているのだ。幸いなことに、日本点字図書館の点字図書貸出状況は、ここ5年の統計を見ても、ほぼ同じ数で経緯している(年間、点字図書約11,000タイトル、点字データ・ダウンロード数約30,000タイトル)。図書を点字で読む愛好家は減っていないと言えるのである。

ただ、情報を取り巻く環境は、ここ20年で大きく変化してきた。最大の要因は、パソコンの出現だ。盲人用の画面読みあげソフトが開発され、データになっているものは音声で読むことができる。また、文章も漢字かな交じり文を、自力で書くことができるようになった。

現に、この私でも20年以上前には、こうした原稿を書くときには、点字で元原稿を作り、それに修正を加え、点訳者に渡して普通文字にしてもらったり、目の前で読みあげて代筆してもらっていた。それが今ではパソコンを駆使して、普通に漢字かな交じり文を作成しているのである。日本語には漢字があり、その読み方が文によってさまざまに異なるので、完全な音声で読みあげるのはまだまだである。それにもかかわらず実用化できており、20年前に比し、格段に便利になっているのである。これがアルファベットなどの音声言語になると、特別な固有名詞以外は、正確に読みあげるソフトが完成している。

アメリカなどでは、幼いときから視覚障害になり、小学校から大学までインクルーシブ教育を受け就職しているのに、点字を全く知らないという視覚障害者がたくさんいると聞いている。わが国ではとても考えられないことだが、音声だけで学習し、仕事もこなしているのが実情のようだ。漢字があるのが幸いしていることになるが、アメリカのような状況をわが国に持ち込むのは阻止したいものである。

生誕記念行事

フランスでは6月に国際的な点字会議が再び開かれるほか、世界各国でもさまざまな催しが企画されている。また、世界盲人連合では、各地域代表による点字表記検討会を計画している。点字離れを防ごうという機会になってほしいと願わざるをえない。

わが国では、ブライユと石川の生誕記念年に因んで、(社福)日本盲人福祉委員会と日本点字委員会の共催で、10月31日と11月1日の両日、戸山サンライズ(東京都新宿区)で全国点字競技会や記念行事が行われる。全国の盲学校や一般小学校の4年生~6年生から点字に関する感想文を募集し、表彰したり、記念講演を行う。

一方、大阪の国立民族学博物館では、全盲の広瀬浩二郎准教授の指導によって、点字に関する企画展が、8月13日から11月24日まで開かれる。こうした企画にぜひ参加して、点字に対する理解を深めていただき、視覚障害者の生活に思いを馳せていただければ幸いである。

(たなかてつじ 日本点字図書館理事長)

●国立民族学博物館(大阪府吹田市)
TEL 06―6876―2151(代)
http://www.minpaku.ac.jp/museum/