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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年8月号

ひろがれ!APネットワーク

ハンセン病回復村
学生ボランティアと意味の変容

西尾雄志

「お前さんたち、何しに来た」

中国広東省西部のとある村。そこを訪れた日本の大学生4人と、中国の大学生2人。彼らの目的は、トイレの建設。大学生たちは10日間泊まり込んで、毎日トイレ建設の土木作業に汗を流すことになっていた。

その村の村長は、学生たちに聞いた。「お前さんたち、何しに来たんだ??」

学生たちの目的は、現地のNGOを通して、村長の耳には入っていたはずである。しかし、それを聞いても村長には学生たちの行動は理解に苦しむものだった。村長は重ねてたずねる。

「あれか、国かなんかからの命令か?それとも、学校の命令か?」

「いえ、そういう訳ではないんですけど…」

「じゃあ、何でだ?何でこんな山奥の村まで、わしらの便所なんかを作りにはるばるやって来たんだ!?」

「いえ、あの、えっと…、来たかったから、来ただけなんですけど…」

その学生のもじもじした言葉を聞いたとたん、村長の顔がぱっと変わった。予想もしなかった答えを聞いたような表情。そうして立ち上がり、学生たち一人ひとりの手をとり、こういった。

「そうか、だれかから命令されて、この村にやって来たんじゃないのか。来たかったから来たのか。そうか、そうか、よう来てくれた」

ハンセン病

「かつて癩、癩病、業病、天刑病などの差別的用語で呼ばれた。これらの名称からうかがわれるとおり、何千年の間、洋の東西を問わず、この病は忌み嫌われ、人類の災厄、神仏の業罰として、不当な偏見差別と社会的排除の処遇を受けてきた」

「ハンセン病は、特別に恐ろしい不治の病でもなく、激烈な伝染病でもなく、ましてや因習的な神や仏の祟りなどではない。ハンセン病は抗酸菌の一種M.laprae(らい菌)による慢性感染症で、感染メカニズムは今一歩特定されていないが、発病はきわめて稀である。発病にしても現在は抗ハンセン病薬の早期の治療によって容易に治癒する」(大谷藤郎監修『総説 現代ハンセン病医学』東海大学出版会)。

村長と学生のかみ合わない会話。その理由を理解するためには、村長の暮らす村を説明する必要があろう。村長の暮らす村は、ハンセン病回復村と呼ばれる。

中国にはハンセン病回復村と呼ばれる村落が600か所存在するといわれる。そこに暮らすほとんどの人は、すでにハンセン病を治癒している。しかし彼らは、社会的な差別から故郷に帰ることができず、人里離れた村落でひっそりと暮らしている。

そこへ2000年頃から、変化が現れた。日中の学生らが、ハンセン病回復村の老朽化した家屋の修復や、道路舗装やトイレの建設などの土木作業を行う合宿型のボランティア活動―ワークキャンプを開催し始めた。高齢のハンセン病回復者ばかりが暮らす回復村に、若者が出入りするようになった。

意味の変容

一般的にボランティアとは二つの機能があるという。ひとつは、市場や行政サービスの行き届かない分野へ手を差し伸べる機能。もうひとつは、アドボカシーなどの活動により、行政のあり方を問い、変革を促していく機能。

日中の学生たちが行っているワークキャンプの目的は、行政サービスの十分行き届かない中国のハンセン病回復村でのトイレ建設や道路舗装である。それゆえこの活動は、先の二つの機能のうち、ひとつめの機能を果たしているといえなくもない。しかしそればかりに目を奪われると、この活動がもつ重要な側面を見逃すことになる。それは、ハンセン病問題においては特に重要な側面、つまり、社会におけるハンセン病の意味に関するものである。学生たちはこの活動を通して、ハンセン病の社会的な意味を変容させている。

市場へ二人で買い物へ

2003年、九州の温泉ホテルで、ある団体一行が宿泊を拒否される事件がおきた。ホテル側が宿泊を拒否した理由は、その団体一行がハンセン病療養所の住人であったからだという。

同様のことは日本に限らず、中国でも起きている。今もハンセン病回復村の村人は、バスの乗車拒否をされたり、市場でお金を渡そうとすると、割り箸でお金を受け取られたりといった対応をされることが珍しくないという。

そんな中、こんなことがあった。回復村でのワークキャンプに参加した女子大生が、村のおじいちゃんと、仲良くなった。ある日、一緒に市場に買い物に行こうということになった。その女子大生とおじいちゃんは、一緒に手をつないで市場に行った。市場の人はぶったまげた。

「あ、あの病気の年寄りと、若い娘が、手ぇつないで歩いてるで!」

ワークキャンプを始めて何年かすると、回復村の近くにある市場では、こんな会話が交わされるという。

「おう、じいさん、じいさんトコにまた、大学生たち、来てんだってな。またベンジョ、作ってんのか!?」

「いや、ベンジョはこの前作ってもらったからな。今回は屋根の修理よ」

「そうかぁ、やっぱりまた、来てんだなぁ。こんどうちの村にも、学生たち、来てくんねえかな。うちの村のヤツ、ガイジン見たことねえからなぁ…」

ハンセン病のことをあれほど毛嫌いしていた人たちが、学生たちと回復村の人たちの姿を見て、ハンセン病に対する考え方を変えていく。いや、変えていくというより、自然と普通に変わってくる。学生たちは、「差別をやめろ」とも「人権を尊重しろ」とも言っていない。セメントこねて、土木作業をして、一緒に寝泊りして、仲良くなって手をつないで買い物をしているだけである。

教科書が教えてくれなかったこと

平成生まれの大学生は、ハンセン病という言葉も「ライ」という言葉もこれまであまり聞いたことがない。それゆえ、学生たちの振る舞いも自然に見えて、その奥にはひそかな葛藤がある。

このワークキャンプ活動に参加した日本人学生は、次のように語った。

「中国ハンセン病回復者の指のない手と握手をした時、私は何かむずむずするような感覚に襲われた」

「自分の中にもハンセン病に対して壁が存在していた」

しかしその回復村で村人たちと何日か共同で生活するうちに、学生にとって回復村は、「ただの村のよう」で、中国のハンセン病回復者も「皆ただの村人」にしか見えなくなっていったという。学生は言った。「ハンセン病に対する『怖い』という壁は、平凡でありふれた『普通さ』が切り崩していた。ワークキャンプに参加する前に読んだ教科書は、ハンセン病の特殊さを教えてくれたが、普通さは教えてくれなかった。ところが出会いは、初めて彼らの普通さを教えてくれた」。

意味の変容とボランティア

日中の学生たちのワークキャンプがもたらしたもの。それは、トイレや道路だけではない。それは、ハンセン病を毛嫌いしていた周辺住民の意識の変化である。同時に、学生たち自身も、自らにとってのハンセン病の意味を変容させていった。そしてそのハンセン病の意味の変容は、回復村に暮らす人自身の中でも起きている。

当初、学生たちの本意がまったく理解できなかった村長。村長にとってハンセン病の意味とは、この病気にいったんかかってしまえば、治っている、いないにかかわらず、家族とは絶縁になり、ふるさとに帰ることなど考えられず、一生ひっそりと人里離れた回復村に暮らし続ける。そこに、都会から、外国から若者が訪ねてくるとは考えづらく、もし訪ねて来たとしても、それは国か学校からの命令によるものとしか考えられない。それが、村長にとっての「ハンセン病の意味」であった。そしてそれを学生たちの行動は、大きく揺さぶった。

世界的にハンセン病は公衆衛生上の問題として制圧傾向にある。太古の昔から存在する病がいま、制圧されようとしている。それは、人類悲願の達成であるといっても決して誇張ではないだろう。しかしこれが同時に、人類共通の人権侵害という負の歴史に対する忘却の始まりになってはならない。その意味においても、これらの活動を通してハンセン病の意味の変容が、世界的に広がっていくことを期待したい。

(にしおたけし 早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター助教)