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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年4月号

文学にみる障害者像

アイ・アム・サム(I am Sam)

佐々木卓司

アイ・アム・サム(I am Sam)は2001年に公開されたアメリカ映画で、知的障害をもつ父親がその障害の故に親権を奪われ、自分の娘と別れなければならない現実を描いた物語だ。

監督脚本はジェシー・ネルソンという女性で、デビュー作は1994年発表の「コリーナ・コリーナ」。「アイ・アム・サム」は彼女の2作目の作品となる。

主人公の知的障害をもつ父親「サム」役にはショーン・ペン。親権を取り戻そうと奮闘する弁護士「リタ」にミッシェル・ファイファー。そして娘「ルーシー」役には、この映画で天才名子役として一躍ハリウッドのスターとなったダコタ・ファニング。

取り上げているテーマが重いのにこの映画を見て何より感じるのは、本当に素晴らしい時間を共有したという、何とも幸せな気持ちになることだ。映画全編に流れる音楽はすべてビートルズのカバー曲だ。そしてビートルズのファンならだれもが気付くのは、この映画の登場人物の名前や、台詞、カットの随所が、ビートルズに関するアイテムで埋め尽くされていることだ。

映画は、コーヒーショップ、スターバックスで働く主人公サムの仕事振りをカメラが追うところから始まる。この映画のほとんどの場面が固定カメラではなく手持ちカメラで撮影されているのだ。そのサムに店長が「サム、病院に行く時間だ」と告げる。サムが走って行く先は病院の分娩室だ。

「あなたが父親?女の子ですよ」と言われて看護師から手渡された生まれたばかりの赤ん坊を恐る恐る抱くサムが、その子に向かって「君の名前はルーシー。ルーシー・ダイヤモンド・ドーソンだよ」。だが母親のレベッカは抱こうとしないのだ。

赤ん坊を抱いたサムと出産を終えたばかりのレベッカは街に出てバスに乗ろうとする。ところが、その時、突然レベッカは、サムと赤ん坊を残してその雑踏の中に姿を消してしまうのだ。

この日を境にサムの生活は一変する。

赤ん坊のルーシーを抱きながら、店で懸命に働くサムを、店長はじめ、スタッフや、店の客もが温かく見守る。

サムの住むアパートにはアニーという中年の女性が住んでいる。彼女は音大を主席で卒業したピアノ教師だが、実は20年前から外出恐怖症となり、ずっと自分の部屋から出ずに暮らしているのだが、そのアニーがサムの子育てに援助の手を差し伸べる。そして昼間はルーシーを預かり、サムを仕事に行かせるのだ。

サムにはまた、同じような知的障害をもつ大切な仲間がいる。サムと彼らの間にはたくさんの約束事がある。たとえば毎週木曜日には皆でビデオを持ち寄って見る会があったり、水曜日はアイホップというファミリーレストランでいつも決まって同じメニューで朝食をとることなどだ。それらを忠実に守ることで、実は心の安定を維持しているのだ。そして彼らの友情も続いているのだろう。

知的障害のある人たちの暮らしには、この映画が表しているように、それぞれその人なりの決まり事があって、それを変えることを極端に恐れるのでなぜだろうと思うことがある。

ところが、障害がある人の側に立ってこの社会を見直してみるとその謎は簡単に解ける。もしこの社会が知的障害をもつ人たちばかりだとしたら、このような決まり事をつくらなくても、気持ちよく、楽に暮らしていけるだろう。だが現実の社会では彼らはマイノリティ(少数派)なのだ。いつも他人からは、自分の言動に対して、奇異な目を向けられたり、驚かれたり、嫌悪されたりする。そんな恐怖の中で毎日毎日を生きていかなければならないとしたら、なるべく目立たず、変化を好まず、昨日と同じ今日を送ることで、安心できるのだ。決して知的障害という障害がそういう行動を促しているのではないのだ。この健常者が圧倒的に多い社会の中で生きていかなければならない必要性から生まれた、身を守るための術なのだ。

やがて娘のルーシーは7歳の誕生日を迎えるが、学校に通い始めたルーシーは自分の父親が、ほかの子どもたちの父親とはどこか違っていることに気付いていく。そしてサムに「お父さんは普通のお父さんとなぜ違うの」と問うのだ。

それをじっと聞いていたサムは悲しく答える「こんなお父さんでごめんよ」と。

この時からルーシーは学校で学ぶこと、自分が父親より知識を持つことに罪悪感を持つようになるのだ。大好きなお父さんのあんな悲しい顔を二度と見たくないというルーシーの心が、彼女の進む方向を変えようと動き始めたのだ。そんなルーシーの行動に疑問を持ち始めた学校の教師が市の福祉局に連絡をとり、サムとの生活環境がルーシーの将来にとって問題ではないかと報告するのだ。

さらに、サムがルーシーを喜ばせたい一心で計画した7歳の誕生パーティの時に事件が起きる。ちょっとした弾みで、よその子を倒してしまったサムは、子どもに暴力を振るったという疑いから逮捕され、ルーシーは施設に預けられてしまう。

この日からサムとルーシーは離れ離れに暮らさなければならなくなるのだ。

毎日毎日あんなに愛し合っていたサムとルーシー、その父と娘の幸せな昨日までの暮らしは、何も悪いことなどしていないのに、現代の健常者社会の仕組みと常識というものによって奪われてしまうのだ。

奪われた自分の親権を取り戻すために、サムが必死に協力を求めた女性弁護士「リタ」をミッシェル・ファイファーが実に美しく、可愛く、魅力的に演じている。この「リタ」を見ただけでもこの映画に出会えて本当に良かったと思うほどだ。

映画の中でサムが自分の気持ちや、自分の正当性を表現しようとする時に、自分の言葉の少なさと、表現の方法の無知を補うために、記憶の中にある映画の一場面や、大好きなビートルズのメンバーが語る言葉で表そうとする。それを理解するのは、娘のルーシーや隣のアニーや4人の仲間たちだけだ。だから法廷ではサムの言葉は一笑に付されてしまう。そればかりか、親権を争う法廷での検事の質問に対して、映画の話や、ビートルズの話をするサムに、「彼は人とまともに会話をすることができない。彼には子どもを養育していく能力がない」という審判が下されてしまうのだ。

自分の努力ではどうにもできない知的障害というハンディのために娘との暮らしを奪われてしまったサム。普段は決して怒らないサムが、ついに自分のために無償で弁護を引き受けてくれたリタに向かって「君は幸せだ、毎日息子と一緒にいれる、でも今の僕にルーシーはいない、君に僕のことなどわからない」と怒りをぶつけてしまう。そのサムの悲しみに衝撃を受けたリタが、「あんただけが苦しいわけじゃないのよ」と、自分の夫婦関係の欺瞞(ぎまん)性や、息子との壊れ始めた関係や、自分自身の弱さをさらけ出し、ついにはサムの前で泣き崩れるのだ。

実は、これまでリタはサムを障害者としてしか接してこなかった。だが今ここにいるリタは昨日までのリタではない。弁護士と依頼人の関係でもない。自分が今まで見たこともなかったリタだ。サムはそのリタの変化に気付き、驚き、彼女の肩を抱き、必死で慰め始めるのだ。そしてサムはもう一度、娘との暮らしを取り戻そうと決意する。

映画のラストは、里親になった家族や、息子との関係を取り戻し、子どもと一緒に笑う優しい笑顔のリタ、さらに4人のサムの友人や近所の人たちが応援しているその中で、ユニホームを着た子どもたちに囲まれ、ホイッスルを口にくわえ、うれしそうに審判をしているサムと、元気一杯でボールを蹴っているルーシーの姿をクレーンカメラが、空の上から見守るように二人を追うところで終わる。

この映画で主人公サムが勤務するスターバックスコーヒーは、もともと障害者を積極的に採用する企業の一つだ。ここでは障害者など、何らかの配慮が必要な社員をチャレンジパートナーと位置づけ、多くの障害者が働いている。もちろん日本のスターバックスでも同様で、現在90人の障害をもつ社員「チャレンジパートナー」が働いている。チャレンジパートナーの採用は、主にハローワークをはじめとする地域の就職面接会や、養護学校からの紹介を通じて行われる。ところがスターバックスコーヒーのホームページでもこの制度のことはアピールされていない。その点を同社の広報担当者は「国籍、障害の有無にかかわらず、パートナーの多様性を積極的に受け入れることは、特別なことではないからです」と話す。

成果主義に翻弄されて、障害者雇用がどんどん遠のいていく現代の日本経済社会において、わずかでも新たな道を進み始める企業が出てきたことは私たちの希望である。

(ささきたくじ 整肢療護園同窓会事務局長)