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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年6月号

列島縦断ネットワーキング【沖縄】

障がいのある人もない人も
いのち輝く条例づくりの会の取り組み

早坂佳之

1 条例案発表!!

2010年3月27日(土)、甲子園初出場を決めた嘉手納高校の地元、嘉手納中央公民館にて「輝け!みんなの条例!」JDF地域フォーラムin沖縄〈障害者権利条約の完全批准にむけて、届け!島んちゅの声!〉を行いました。

今回のフォーラムでは、「障害の有無にかかわらずすべての人の尊厳が守られる社会づくりの促進に関する条例(案)」(通称・沖縄県障害者の権利条例)が発表されました。300人収容の会場はいっぱいで、その中には多くの知っている人、そして多くの知らない人がいました。

障害の有無にかかわらずすべての人の尊厳が守られる社会づ<りの促進に関する条例(案)
(通称・沖縄県障害者の権利条例)

インクルーシブな沖縄社会の実現を目指して・合理的配慮

  • 平和に生きる権利
  • 県の責務
  • 共に生きる地域づくり
  • 人としての尊厳
  • 権利における平等
  • 地域社会で生活する権利
  • 平等な医療を受ける権利
  • リハビリテーション又はハビリテーションを受ける権利
  • 居住場所の確保
  • 公衆用施設及びサービスの利用
  • 個人の移動性の確保
  • インクルーシブな保育支援サービスを受ける権利
  • 情報及びコミュニケーションの確保
  • 政治的活動の権利
  • 平等な教育を受ける権利
  • 自己実現への権利
  • 労働における平等
  • 文化的な生活、レクリエーション、余暇及びスポーツへの参加
  • 障害のある人の権利委員会

施設から出る勇気が出ない養護学校出身の若者。「社会的入院」を余儀なくされる精神の当事者。「障害者」として認められてこなかった難病者。「いつか幸せな結婚をしたい」と語る知的当事者。自宅に閉じこもりがちな視覚障害の方。地域にコミュニケーション保障がないと憤る聴覚障害の人。「友達がいるから」といじめにあってもなお普通学校に通う脳性マヒの学生。言葉はなくても表情やしぐさで会話する重度心身障害の若者。呼吸器を付けながら24時間の見守り保障を求めている人。いつか路線バスで遠くの友人宅に行き、一杯飲んで帰りたいと願う車いすの人。石垣や宮古島で夜遅くまで議論した、本島以上に少ない地域資源の中で悪戦苦闘する当事者や支援者。国(民)の誤った認識と差別が引き起こす悲劇と「命の尊厳」について教えてくれたハンセン病元患者。国連で障害者権利条約ができる瞬間に立ち会い、その魂を持ち帰り障がい者制度改革推進会議で発言している人。政治家。記者。障害者福祉に関わる行政関係者。新聞で読んで興味を持った主婦。高齢者。学生。エトセトラ。

一人ひとりの思いが交錯したり、時に一つになったりする独特な雰囲気の中、この条例案は発表されました。

2 条例づくりの会発足と代表の死

私たち「障がいのある人もない人もいのち輝く条例づくりの会」は、今から約2年前の2008年3月23日に有志により発足し、これまで県内各地で意見交換会やシンポジウムを開き、ある時は直接お宅に伺って、障害のある人、ない人かかわらず、多くの人の声を集めてきました。

意見交換会は08年は本島中部、南部、北部と石垣、宮古島で8回開催し、半年間で参加者は総勢約300人になりました。そこで聞かれた声をまとめたのが、2009年1月17日の宜野湾コンベンションセンターで発表された「障害者の権利条例・骨子案」です。

これを持って各地でタウンミーティングを開催していこうとしていた矢先、09年5月31日に、当時の共同代表の一人だった新門登(しんもんのぼる)氏がガンのため亡くなりました。

氏についてはここでは多くを書きませんが、私を含め、多くの障害者運動、人権運動に携わる者がその影響を受けた彼の人生の終わりが、こうも急なものかと、今でも信じられない思いでいます。

今後の活動をどうしていくべきか、残された者は何をすべきか、私自身もそうであったように、それぞれの胸の内での自問自答があったと思います。

しかし、最後の最後まで彼の姿が示していたことは、途切れなく、次から次にやって来る見舞い客が物語っていたと思います。「だれもが地域で自分らしく活(い)きることができる社会を」「自分たちの手で、足で、口で」「そのためには人と人とのつながりが大きな力になる」ということを、私は感じました。

もう一人の共同代表である岡島実(おかじまみのる)氏に新門氏が最後に語った言葉が「重度の障害者が適切な医療保障を受けられるようにしてほしい」ということだったそうです。

私たちは再び、条例制定に向けて歩み始めました。

3 条例案ができるまで

新共同代表として快諾くださったのは、県内当事者団体との人脈がある上里一之(うえざとかずゆき)氏でした。県内の当事者団体間の緩やかな関わりを持ちながら、運動を進めていく必要から、氏の力はなくてはならないものでした。その後、氏を中心に、県内各団体への呼びかけがこれまで以上に活発になされました。

同時に条例骨子案を一歩進めた、条例案づくりのためのたたき台となる条例素案、そして条例案づくりを、高嶺豊(たかみねゆたか)顧問、岡島両氏を中心とした作業チームを立ち上げて行いました。

条例案づくりには教育、医療、就労、福祉などの分野で離島も含めたそれぞれの現場の第一線にいる人たちが加わり、まず、2006年12月に国連で採択された障害者権利条約と2007年7月、国内初の障害者差別禁止条例となる千葉条例の勉強会を行いました。

条約では、「障害者」をわが国で従来採用されていた医療モデルではなく、社会モデルとして捉え、国際的にはこのモデルが標準であることや、憲法でいうと、25条「生存権」に限定される福祉的アプローチとしての権利ではなく、もっと一般的な14条「法の下の平等」でうたわれている人権的アプローチとしての権利、人として当たり前の権利であること。そして権利は、当事者が訴えることで生まれてきたもので、訴えがないところには生まれないことを条約の勉強会で学びました。

私たちがつくる条例は、この立場を堅持しながら、沖縄という地域の特性を併せ持つ必要があることが確認されました。そのために、これまで行ってきた意見交換会や、それ以降も常に入ってくる声、参加者たちの体験は条例案をつくる上ですべて貴重なものでした。そして千葉条例の勉強会で、よりその認識を深めることができました。

年を越して2度の合宿を行い、条例案の一言一句をさらに精査していく作業が続きました。こうしてできたのが冒頭に掲げた「障害の有無にかかわらずすべての人の尊厳が守られる社会づくりの促進に関する条例(案)」です。

4 宿題と今後の活動

「条例は言葉が難しい」「条例ができたって自分たちの暮らしが変わるとは思えない」という言葉を聞きます。

沖縄の県民すべてに関わる条例だからこそ、分かりやすく、丁寧に中身を伝えていくことが、今後必要になってきます。特に、差別の一つである「合理的配慮の欠如」については、一つ一つの事例ごとに検討し、差別であるかどうかはきちんとした判断基準に基づき、対応していくことが求められます。

そのためには、現在中心となっている者がファシリテーター(みんなの意見を引き出す役)となって各団体が開催する勉強会に参加したり、劇団HAYASAKAをとおして伝えたり、4月22日~5月18日まで行われるキャラバン「うちなーTRY」を成功させることなど、これまで以上に各団体間で力を合わせることが必要になってくるでしょう。

私の脳裏にフォーラムに来ていなかったある島の親子の姿が浮かびます。毎日精一杯に障害のあるわが子、社会と対峙して、疲弊していく親と、ついに生まれた島を離れることになった子。「これはあなたたちの運動の敗北です」とある人に言われた言葉を胸に突きたてながら、今日もどこかで行われているであろう人権の敗北を、何とか断ちたいという危機感を持ちながら、会では来年の3月までに、沖縄県障害者の権利条例制定を目指します。

(はやさかよしゆき 障がいのある人もない人もいのち輝く条例づくりの会事務局)