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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年7月号

文学にみる障害者像

「見世物」から俳優へ
寺山修司『畸形のシンボリズム』を読む

中野惠美子

寺山修司は1935年青森県に生まれ、詩、俳句、短歌、小説、エッセイ、戯曲、評論、映画、写真などさまざまな分野で活動した。1967年には劇団『天井桟敷』を旗揚げし、「青森縣のせむし男」「大山デブ子の犯罪」などの作品で話題を呼んだ。『畸形のシンボリズム』は1978年から雑誌『新劇』の特別企画として書き始められたが、病状悪化のために中断され、没後に単行本化された。近代化論を軸として古典文学や近世の「見世物」にふれ、国内外の近代小説、評論、映画、新聞記事等、さまざまな言説の中の「異形」や「畸形」の表象に関する資料をもとに、独自の俳優論が展開される。

造反のシンボルとしての「異形」

寺山は「近代日本とは平均的身体によって形成された一つの倫理」であり、「西洋近代思想の摂理の表現として登場した啓発思想は、民衆の身体の画一性を制度として規範化」することによって「畸形を排していった」として、明治の小説家広津柳浪の「異形の者」を主人公とする作品を取り上げる。

小さな身体で顔に傷跡のある男が恋をしたことをきっかけに人を殺す『変目伝』、知的な発達に遅れのある男が女にだまされて放火事件を起こす『亀さん』、「皮膚畸形」のある女が横暴な義父を殺す『黒蜥蜴』……近代化していく社会の片隅に生きる人々が起こす事件を題材にしたこれらの作品は、自然主義の流れの中で論じられるのが常だった。しかし寺山は、柳浪の作品に「民衆の画一的一身独立によって果たされる近代の、平均的身体と固有の精神による西洋的啓発精神へのはげしい造反」を見る。主人公たちは「自然的存在」ではなく、「近代化への異議申し立てのシンボル」として「意図的に人工的に作り上げられ」、「制度化された身体が“富国強兵”の論理へと整序されてゆくことへの反喩」として、「日本的近代の形成の矛盾そのものの中から生まれ」て、「路地裏や長屋に出没した」のだ。

そして、これらの作品は産業革命期の英国で書かれたメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』と酷似しているという。『フランケンシュタイン』は、自然科学の実験によって生み出された「人造人間=怪物」の物語である。「怪物」は人間の言葉を覚え、人間として生きたいと願うが、その醜悪な容貌から人々に忌嫌われ、孤独に苛まれて殺人に手を染めていく。作品からは、人間として扱われないことへの痛いほどの苦しみと孤独が伝わってくる。テーマは「近代科学の支配する合理主義社会への反問」にあり、柳浪の作品もまた「西洋直輸入の啓発主義が支配する日本的近代への反問」が根底にあった。

『フランケンシュタイン』は超自然的な幻想譚として、柳浪の作品は自然主義的リアリズムとして扱われてきたが、寺山はこれらの作品が共通して「主人公の畸形を問題にせざるをえなかった」ことを問題にする。「彼らが畸形の呪術的な媒体効果」によって立ち向かおうとした「東西の近代主義的“進化”のはらむ諸矛盾は、おそらく現代にひきつがれている。だからこそフランケンシュタインは、死んでも灰の中から不死鳥のようによみがえる日を予告して、海の上をいまも徘徊しつづけている」。この指摘は、「近代の諸矛盾」を問い直すことの意義を提起して、今なお新鮮である。

「乱歩の誤ち」を超える「異形者たち」

寺山は、柳浪の小説における「畸形の扱い」は江戸川乱歩の小説のそれとは、明らかに異なっているという。乱歩の『踊る一寸法師』や『一寸法師』は『変目伝』と同じような身体をもつ男が、同じように周囲との軋轢(あつれき)や「世間への復讐心」から殺人を犯す物語である。『孤島の鬼』、『蜘蛛男』など他の作品でも「畸形はつねに悪」として扱われ、事件の背景とされる。そこには「殺人の因果を一寸法師の不具的肉体の因果と重ね合わせることによって、事件全体をひとつの通時律のなかに組こんでしまおうとする乱歩独自の浄化の倫理」がある。そして「法則も幾何学もなく散乱することによって生まれかける神話的宇宙を整除し、日常の倫理によって裁こうとする」のは、「一寸法師を藁人形か呪具のようにしかとらえきれなかった乱歩の誤ち」であるとする。

確かに、「異形者=悪」とする乱歩の論理と残酷趣味に満ちた猟奇的な描き方は、受け入れがたいものがある。しかし、これらの物語は「異形者」なくしては始まることすらできず、事件を推理する「名探偵明智小五郎」の存在も無となる。世の中をハスに見たような彼らの言動は、明智が「異形」を排除することによって取り戻そうとする「近代的秩序」の危うさ、底の浅さをあぶり出す。だからこそ「異形者たち」は次々と現れ、「反逆児」としての存在感と既成の価値観にとらわれない反骨精神をもって世の中を騒がせる。それは作家自身の「はぐれ者」としての一面が明智ではなく、「異形者たち」の方により強く反映されているからではないだろうか。「異形者たち」は「乱歩の誤ち」を超えて主張し続けているように思える。

「みせしめ」から俳優へ

寺山は「乱歩の猟奇小説の主要なモチーフの一つである道徳性」は、「畸形を見世物化してきた歴史の背後」にある「庶民の民間信仰的宗教性」と無縁ではないという。「見世物は畸形を超自然的な存在から与えられる“罰”としてとらえることによって誕生」し、商品化されて、「因果道徳用の教材」となり「みせしめ」として機能した。パリや江戸で同じ頃さかんに「見世物」が行われたことから、「畸形は“普通の形のもの”を強化するためのモデルとして媒介的に存在し、19世紀に入ってからは次第に“足らざるもの”のシンボルとして社会的に機能するようになった」という。

ここで寺山は「だが、一体、どこに“普通の形のもの”などが存在していたというのだろう」と提起して、独自の俳優論を展開する。一寸法師の役割は「ニュートラルな身体などというものが俗空間に住む人々のイメージの影でしかないことを報せる」ことにあり、それは「私たちの日常の現実を演劇的な言語で組織するための俳優の役割のひとつ」である。「畸形であることはそれ自体で俳優であることを意味し」、「俗な空間の日常性を代行しない」一寸法師の身体は、「呪術師としての機能を備えているがゆえに、もっとも現代の俳優たるにふさわしい」と結論する。

巻末の解説で池内紀は、「一見、不自然で反自然なものが、むしろ自然そのものから生じている事実こそ、自然の健全さのあかしであり、詩人や芸術家が好んで何かひねくれて異常なものをもちだしてくるのは、世界を“新たな光のもとに”見せるための手段である」と述べている。この言葉は金満里が主宰する『劇団態変』の舞台を想起させる。障害そのものを「見せる」ことによって繰り広げられる身体芸術表現活動は、まさに「世界を新たな光のもと」に「引きずりこみ」、観客に「宇宙」を感じさせる試みである。『劇団態変』旗揚げの1983年が寺山の没年でもあるという偶然は、「畸形」を通して近代と向き合う思想性の継承を示唆しているかのようである。

おわりに

「近代という時代」は、合理性と効率を求め、さまざまな排除を生み出しながら進んできた。一方で、すべての人が平等で尊厳のある存在であることを自明の理とする人権思想を生み出し、ノーマライゼーションやインクルージョンといった潮流を生んだのも「近代」であった。近代を生きることで「実態としての排除」と「思想としての人権」の両方を経験した私たちは今、「すべての人を包み込む社会」に向かわなければならないと思っている。そのためには、近代が異化し排除してきたものを再構成して取り込んでいかなければならない。そうしなければ、未来のビジョンを描くことができないところまで来ているのだと思う。「見世物」が異化してきたものは、つまり私たち自身であり、この社会と宇宙を構成している「当たり前の部分」であることに、「見世物小屋」を飛び出した「俳優」たちが気づかせてくれる。

(なかのえみこ 財団法人日本知的障害者福祉協会)


【引用・参考文献】

○寺山修司『畸形のシンボリズム』、白水社、1983年

○広津柳浪『変目伝』『亀さん』『黒蜥蜴』、「現代日本文学全集第7篇」、改造社、1929年

○江戸川乱歩『一寸法師』『踊る一寸法師』『孤島の鬼』『蜘蛛男』、「江戸川乱歩全集2巻、3巻」、講談社、1969年

○金満里『生きることのはじまり』、筑摩書房、1996年