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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年8月号

列島縦断ネットワーキング【愛知】

まちづくりを通してつながる輪
―楽笑におけるまちづくりプロジェクトの取り組み―

小田泰久

私どもNPO法人楽笑(らくしょう)は、平成19年4月より、愛知県蒲郡市三谷(みや)町にて事業を開始しました。

「障害をもつ方もそうでない方も自分の好きな地域で暮らし続け、だれもが楽しく笑いに満ちたまちづくり」を法人の理念に掲げ、近江商人のポリシーである「売り手良し、買い手良し、世間良し」の「三方良し」を経営方針としています。

なぜ「まちづくり」なのか。そこに至るまでの経緯とまちづくりの実践を紹介させていただきます。

楽笑が拠点とする愛知県蒲郡市は三河湾沿岸にあり、人口は8万人、産業は農業、繊維業、漁港と温泉で有名な観光地でした。しかし、近年は急激な過疎化が進み、主力産業は停滞し街が元気を失いつつありました。唯一昔から変わらず残っているのが、3百年以上続いている「三谷祭り」の祭りコミュニティー。人と人とのつながりや支えあいなど、昔からのコミュニティーは今もなお変わらず続いています。街のニーズもそういった祭りコミュニティーから発信されることが多く、楽笑の立ち上げもここから生まれました。

地域のニーズに寄り添う

私の福祉に対する動機は、姪が障害をもって生まれたこと。その姪が当たり前に暮らせるようになるにはどうすればよいかを考えていた頃、近所に住んでいる電動車いすに乗った男性がまちづくりを始めるという話を耳にしました。私は「とにかく福祉のことが分からないんだから、知っていそうな人に聞いてみよう」とその方を訪ね、「福祉というのはまちづくりなんだ」という言葉を聞きました。最初はさっぱり意味が理解できず、「福祉のことを聞きに来たのにまちづくりって何なんだ」と思いました。

福祉の世界で生きていこうという想いがある反面、どうしたらいいのか悩んでいた頃、半田市のNPO法人ふわり理事長の戸枝陽基氏と出会いました。ふわりが運営する“喫茶なちゅ”に行った時、そこでは障害をもった方もいきいきと働いていて、衝撃を受けました。ふわりをはじめとする生活支援事業所で働いた後、起業に向けて準備を始めました。

まず手始めに、三谷祭りの先輩たちに自分の構想を披露しました。障害者が働ける場所をつくりたい、障害者が暮らせる街にしたいと、熱く語りました。いいことだ、と賛成してくれるに違いないという目算は見事に打ち砕かれ、出された意見は、消極的、批判的なものが多く、それが本音だということも分かりショックを受けました。どうすればよいかと考えているうち以前のまちづくりの話を思い出し、地域のニーズの大切さを見直そうと思いました。

そこで、ひとまず自分のプランはおいておき「この街のためにはどんなことをやったらいいんでしょうね」と投げかけました。すると「障害者に働く場がないのも分かるけど、うちの奥さんだって仕事を探してるんだ」「おまえの奥さん、パンを焼くの趣味だよな」「昔みたいに子どもが遊べる場所がなくなったよね」「子どもの買い物の練習ができる駄菓子屋があるといいのに」などの声が出てきました。そういうニーズを満たす場所として「障害をもつ人と地域の主婦が共に働くパン屋」「子どものお使いの場所としての駄菓子屋」という形で自分のプランを語り始めると、次第にみんなの反応が変わってきました。「じゃあ、それ、やってみるか!」と一緒にやっていく気運が出てきました。それからというもの、障害に対する反対は一切出なくなり、4か月という準備期間で、パン工房「八兵衛」のオープンを迎えることができました。

実は「楽笑」という法人名も「八兵衛」というパン屋の名前も地域の方からの命名で、「楽笑」は三谷祭りの厄年会「楽翔会」から、「八兵衛」は近所に昔あった駄菓子屋の「六兵衛」からいただきました。

障害者と協働することで街が活性化する実践

パン工房八兵衛に通う障害をもつ方が次第に増えた頃、あるお客様が「何か店の雰囲気が悪くなったね」「八兵衛で働く障害者が…」という話をされていたのを耳にしました。少人数でパン工房を運営していた時は、お客様は障害のあるメンバーに対してもきちんと名札を見て名前で呼んでくれていました。それが人数が増えたとたん、障害者というカテゴリーで話し始めたのです。人として地域で暮らし続けるためにも、そういうことがあってはいけないと考え、次の店舗を考えました。

より地域の方に理解していただきたいという思いから、地場産業である水産加工を授産項目として選びました。地域の問題である、団塊世代退職者の生きがいづくりや地場産業の担い手不足のなか、街の活性化を障害をもつ方が担うことで、障害をもつ方が地域で必要だと思っていただけるようなプランを打ち出しました。

街のために良かれと思って打ち出したプランに反対はないだろうと自信を持っていましたが、地域の協力を得るにはいくつかの壁がありました。地元には、他にも水産加工業を生業としているところがいくつもあり、障害者の就労支援の場として、補助金をもらう楽笑が干物販売に乗り出すことに「フェアじゃない」という声が上がりました。

地元業者と競争相手にならずに協力しあっていくにはどうしたらいいのか。手探りで一つ一つ課題を解決していきました。長く水産加工業を営んでいた方から、「お宅がやるなら、うちはもう店をたたむしかない」と言われた時、ようやく気付きました。街を活性化するためによかれと思ってやろうとしたことが、逆に衰退に結び付けてしまう事業になってしまう。障害者だからとか福祉だからとかは地域の人には一切関係なく、商売をする上で地域と協働する重要性を学びました。

地元の業者さんとwinwinの関係ができるように仕入れで協力したり販路を共有したりすることで、無事オープンすることができました。

セーフティーネットではなくセーフティーシートに

日頃の活動を通して、アドバイスをくださる近所の30代の主婦の方を中心に、まちおこし隊を結成しました。地元であることに加え、「自分の子どもが暮らしやすい街」ということも加わり、自ら地域のニーズをリアルに挙げてくれます。地場産業の活性化・人とのつながり・子どもの楽しめる場所等、話し合いの中で、社会資源である漁港を会場とした一つのイベントが生まれました。200人程度だろうという予想を大幅に超え、1000人を動員しました。たった一日でも活気のある漁港が復活し、その様子を見た漁港の組合長から、「楽笑の取り組みは間違ってなかった」とのお言葉をいただきました。やっと街の一員になれたと実感した瞬間でした。

そういった地域の活性化やまちづくりを地域住民と協働して活動を続け、少しずつ楽笑の取り組みや活動、障害者の理解が進んできたのを実感した出来事がありました。

今年の4月、電車を使ってパン工房へ通う障害をもったメンバーが道中でパニックになってしまい、しゃがみこんで声を発していました。「あんたの所で働いている○○さん、泣いてるから早く迎えに来てやれよ」と電話がかかってきました。その瞬間、私は地域理解の輪が少しずつ広がりを見せ、だれもが暮らしやすい街ができつつあるなと思いました。

網の目で落ちてしまうセーフティーネットではなく、きちんと拾い上げるセーフティーシート。このシートは地域の方々の支えがなければ成り立ちません。「みんなが暮らしやすい街をつくろう」というミッションが地域に浸透し始め、共に支えあいながら生きていく、そんな共に生きるノーマルな社会になりつつあります。

(おだやすひさ 特定非営利活動法人楽笑理事長)