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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年9月号

時代を読む11

戦後初の日本製車いすと箱根療養所

日本は日清、日露、第二次世界大戦で多くの傷痍軍人を生み、脊椎損傷者を収容した箱根療養所では車いすが使用されていた。箱根療養所は傷痍軍人箱根療養所(1940~1945)、国立箱根療養所(1945~1975)、国立療養所箱根病院(1975~2004)、国立病院機構箱根病院(2004~現在)と名称を変えながら現在に至っている。

日本の車いす製作の草分けである北島藤次郎(きたじまとうじろう)氏から私が聞いた記録によると、北島氏は昭和7~8年頃から車いすを作り始め、箱根療養所に車いすを納めていたが、昭和17(1942)年には自身も招集を受けた。復員後、当時の箱根療養所の庶務課長であった遠藤保喜氏の依頼により、昭和21(1946)年から八王子市にて北島藤次郎商店として再び車いすを製造し、箱根療養所に納入した。この車いすは「手動運動車」と名付けられ、戦前の車いすと基本的には同じであるが、座席部分は籐張りから布製に変わった。

この車いすは、後に「箱根式車いす」と呼ばれるようになる。箱根式車いすの重量は30kg以上あり重く、大型であるがリクライニングができ、自分で漕ぐことも介助者に押してもらうことも可能であった。ただし、折り畳みはできず、ブレーキやハンドリムも付いていなかった。

2001年12月、箱根式車いすの調査のため、箱根病院西病棟に当時住んでいた3人のうちの1人、望月栄允(もちづきひでちか)氏(当時85歳)を訪問した。氏は57年間、箱根療養所で生活し、2年前までは箱根式車いすを使用して自力でベッドへの移乗もしていたとのこと。また、介助者とともに花見や地引き網などにも出かけたとのことであった。

箱根式車いすを原点とした日本の車いすは、1964(昭和39)年、東京パラリンピックを契機に各種の研究、改良が行われ、大きく進化を遂げてきた。今ではさまざまな種類、材質の異なるもの等が作られ、生活用具として、また、スポーツ用具としても不可欠なものとなっている。

(高橋義信 新潟医療福祉大学非常勤講師)