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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年9月号

1000字提言

握手までは望まないけれど

秋風千惠

毎日新聞8月4日の一面に「患者の暴言暴力」という記事が載っていた。奈良県医師会が県内の医療従事者にアンケート調査をしたところ、医師や看護師の6割が患者から暴言や暴力による被害を受けたと回答したのだという。診療中の医師がナイフで刺されて重傷を負った事件もあり、休職したり、心的外傷後ストレス障害に苦しんでいるケースもあるそうだ。全国的に患者からの暴力暴言による被害を受けた医療従事者は多いらしい。

先天性四肢障害で、「子どもの頃からの病院歴50ン年」のベテラン患者である私からみると、ずいぶん時代が違ってしまったというか、隔世の感が強い。

子どもの頃の記憶に残っているのは、たとえば『白い巨塔』にでてくるような、院長を先頭に医師がぞろぞろ列を成して歩く回診だったりする。偉い院長は患者の身体に触りもしない。担当医は私の病状を偉い先生に説明しているのだが、そこには異常のある肉体があるのであって私という存在はない。手術台の上にいる私を見下ろす偉い先生の目は、「睥睨(へいげい)」という日本語の正確な意味を私に覚えさせた。

私とあまり年齢の違わない安積遊歩さんは医師からセクハラされた時のことを書いていたが、当時の医師というのは、患者にとって絶対の権力者だったのである。しかし、医師があれほどまでに権力をふるっていたのは、日本だけであったのかもしれない。イギリスではいくぶん事情が違っていたようだ。

ローズマリ・サトクリフは自伝『思い出の青い丘』に、1920年代後半の手術室の様子を書いている。小さな女の子であった彼女は手術室に入ると医師たちと「温かく握手」し、その一人に「あなた、医学生なんですか?」と聞いた。するとその医師は「昔はね、そうだったんだよ。それに、それからずっとそうなんだと思うね」と言って、手で彼女の顔を包んで安心させてくれたという。何度読み返しても、温かい思いと羨望にとらわれる。私も子どもの頃、医師に信頼が持てていれば、全く違っていただろう。

20年前、卵巣嚢腫の手術で初めてインフォームド・コンセントを受けた時はひどく驚いた。そして疑った。医師が説明するの?この愛想のいい医師は何を隠しているの?と。それは杞憂であったし、患者なら当然インフォームド・コンセントを受けられ、むしろ医者と一緒に病気を治していく時代になっているということも、今では理解している。少なくとも頭では。それでもまだ、医師を疑うことがあるのだ。

暴力や暴言で医療従事者が萎縮したり、働く意識を阻害されるようなことがあってはならないと思う。しかし一方で、生殺与奪を握る権力が息を吹き返して、小さな子どもに「睥睨」の意味を覚えさせるような時代には逆戻りしないように、とも願うのである。

(あきかぜちえ 大阪市立大学大学院)